第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 牛と「いなご」(四)
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この壮士は一体何者だらう。
悪来典韋は、闘ひながらふと考へた。
賊将を生擒つて、何処(どこ)かへ拉(ラツ)して行かうとする様子から見れば、賊ではない。
と云つて、自分に刃向つて来るからには、決して味方では猶(なほ)更(さら)ない。
「待て壮士」
悪来は、戟を退いて叫んだ。
「無益な闘ひは止めようぢやないか。貴様は黄巾賊の残党でもないやうだ。賊将の何儀を、われらの大将、曹操様へ献じてしまへ。さすれば一命は助けてやる」
すると壮士は、哄笑して
「曹操とは何者だ。汝らには大将か知らぬが、おれ達には、何の恩顧もない人間ではないか。折角、自分の手に生擒つた何儀を、縁もゆかりもない曹操へ献じる理由はない」
「おのれは一体、どこの何者か」
「おれは譙(セウ)県の許褚(キヨチヨ)だ」
「賊か。浪人か」
「天下の農民だ」
「うぬ、土民の分際で」
「それほど俺の生擒つた何儀が欲しければ俺の手にあるこの宝刀を奪つてみろ。さうしたら何儀を渡してやる」
悪来典韋は、かへつて許褚のために愚弄されたので烈火の如く憤つた。
悪来は、双手に二(ふた)振(ふり)の戟を持つて、りう/\と使ひ分けながら再び斬つてかゝつた。然(しか)し、許褚の一剣はよくそれを防いで、猶(なほ)、反対に悪来をしてたじろがせるほどな余裕と鋭さがあつた。
でも、悪来はまだ曽(かつ)て自分を恐れさせた程な強い敵に出会つた事はないとしてゐるので
「この男、味をやるな」
ぐらゐに、初めは見くびつて蒐(かゝ)つてゐた。
ところが、刻々形勢は悪来のはうが悪くなつた。悪来が疲れ出したなと思はれると、俄然、許褚の勢ひは増してきた。
「これは!」
と、悪来も本気になつて、生涯初めての脂汗をしぼつて闘つた。しかし許褚は毫(ガウ)も乱れないのである。愈々(いよ/\)、勇猛な喚きを発して、一電、又一閃、その剣光は、幾たびか悪来の鬢髪(ビンパツ)を掠(かす)めた。
かうして、両雄の闘ひは、辰の刻から午の刻にまで及んだが、まだ勝負がつかなかつたのみか、馬のはうが疲れてしまつたので、日没と共に、勝負なしで引(ひき)分(わか)れとなつた。
曹操は、後(うしろ)から来て、この勝負を高地から眺めてゐたが、そこへ悪来がもどつて来ると
「明日は偽つて、負けた振(ふり)して逃げることにしろ」
と、云ひふくめた。
翌日の闘ひでは、曹操に云はれた通り、悪来は三十合も戟を合せると、遽(にはか)に、許褚にうしろを見せて逃げ出した。
曹操も、わざと、軍を五里ほど退いた。そしていよ/\対手(あひて)に気を驕(おご)らせておいて、また次の日、悪来を陣頭へ押し出した。
許褚は、彼のすがたを見ると
「逃げ上手の卑怯者め。また性(しやう)懲(こり)もなく出て来たか」
と、駒をとばして来た。
悪来は、あわてふためくと見せかけて、味方へは、蒐(かゝ)れ/\と下知しながら、自分のみ真ツ先に逃げ走つた。
「おのれ、けふは遁(のが)さん」
許褚は、まんまと、曹操の術中へ躍り込んでしまつた。およそ一里も追いひかけて行くかと見えたが、そのうちに、かねて曹操が掘らせておゐた大きな陥(おと)し坑(あな)へ、馬もろとも、だうつと、転げ込んでしまつた。
それとばかり、四方から馳け現れた伏兵は、坑の周りに立ち争つて、許褚の体を目がけて、熊手や鈎棒(かぎぼう)などを滅茶々々に突つこんだ。
罠にかゝつた許褚は、忽(たちま)ち、曹操の前へひきずられて来た。
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次回 → 牛と「いなご」(六)(2024年6月7日(金)18時配信)