第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 桑の家(一)
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この桑の大木は、何百年を経たものか、村の古老でも知る者はない。
沓(くつ)や蓆(むしろ)を製(つく)る劉備の家——と訊けば、あゝあの桑の樹の家さと指さすほど、それは村の何処からでも見えた。
故老が言ふには
「楼桑村という地名も、この桑の木が茂る時は、まるで緑の楼臺のやうに見えるから、この樹から起つた村の名かもしれない」
との事であつた。
それはともかく、劉備は今、漸(やうや)く帰り着いたわが家の裏に驢を繫(つな)ぐとすぐ
「おつ母さん、今帰りました。劉備です。劉備ですよ」
と、広い家の中へ馳け込むやうに這入(はい)つて行つた。
旧家なので、家は大きいが、何一つあるではなく、中庭は、沓を編んだり蓆を織る仕事場になつて居り、そこも劉備の留守中は職人も通つてゐないので、荒れたまゝになつてゐた。
「オヤ。何(ど)うしたのだらう。燈火(あかり)もついてゐないぢやないか」
彼は召使の老婆と、下僕(しもべ)の名を呼びたてた。
ふたり共、返辞もない。
劉備は、舌打しながら、
「おつ母さん」
母の部屋をたゝいた。
劉備か——と飛びつくやうに迎へてくれるであらうと思つてゐた母の姿も見えなかつた。いや母の部屋だけにたつた一つあつた箪笥も寝台も見えなかつた。
「や? ……何(ど)うしたのだらう」
茫然、胸さわぎを抱いて、佇んでゐると、暗い中庭のはうで、かたん、かたん——と蓆を織る音がするのであった。
「おや」
廊へ出てみると、そこの仕事場にだけ、淡暗(うすぐら)い灯影がたつた一つ提(かか)げてあつた。その灯(ひ)の下に、白髪の母の影が後ろ向(むき)に腰かけてゐた。たゞ一人で、星の下に、蓆を織つてゐるのだつた。
母は、彼が帰つて来たのも気がついて居ないらしかつた。劉備が縋りつかんばかり馳け寄つて
「今、帰りました」
と顔を見せると、母は、びつくりしたやうに起つてよろめきながら、
「オゝ、劉備か、劉備か」
乳呑み児でも抱きしめるやうにして、何を問ふよりも先に、欣(うれ)し涙を眼にいつぱい溜めた儘(まゝ)、暫(しば)しは、母は子の肌を、子は母親のふところを、相擁して温(ぬく)め合ふのみであつた。
「城門の番人に、おまへの母親は病気らしいぞといはれて、気もそぞろに帰つて来たのですが、おつ母さん、何(ど)うしてこんな夜露の冷える外で、今頃、蓆など織つていらつしやるのですか」
「病気? ……あゝ城門の番人さんは、さう云つたかも知れないね。毎日のやうに関門までおまへの帰りを見に行つてゐたわたしが、この十日ばかりは行かないでゐたから」
「では、御病気ではないんですか」
「病気などはしてゐられないよ、おまへ」
と、母は言つた。
「寝台も箪笥もありませんが……」
劉備が問ふと、
「税吏が来て、持つて行つてしまつた。黄匪を討伐するために、年年軍費が嵩(かさ)むといふので、ことしは途方もなく税が上り、おまへが用意しておいただけでは間に合はない程になつたんだよ」
「婆やが見えませんが、婆やはどうしましたか」
「息子が、黄匪の仲間にはいつてゐるという疑ひで、縛られて行つた」
「若い下僕は」
「兵隊にとられて行つたよ」
「——噫(あゝ)! すみませんでしたおつ母さん」
劉備は、母の足もとに、ひれ伏して詫びた。
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次回 → 桑の家(三)(2023年9月21日(木)18時配信)