第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 牛と「いなご」(二)
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劉玄徳は、こゝに初めて、一州の太守といふ位置を贏(か)ち得た。
彼の場合は、その一州も、無名の暴軍や悪辣な策謀を用いて、強(し)ひて天に抗して横奪したのではなく、極めて自然に、環(めぐ)り来る運命の下に、これを授けられたものといつてよい。
涿県の一寒村から身を起して今日に至るまでも、よく節義を持して、風雲に臨んでも功を急がず、悪名を流さず、いつも関羽や張飛に、
「われわれの兄貴は、すこし時勢向きでない」
と、歯(は)痒(がゆ)がられてゐた事が、今となつてみると、遠い道を迂回してゐたやうでありながら、実はかへつて近い本道であつたのである。
さて、彼は、徐州の牧(ボク)となると、第一に先君陶謙の霊位を祭つて、黄河の原でその盛大な葬式を営んだ。
それから陶謙の徳行や遺業を表に彰(あらは)して、これを朝廷に奏した。
また、糜竺だの、孫乾(ソンカン)、陳登などといふ旧臣を登用して、大いに善政を布いた。
かうして「いなご飢饉」と戦争に、草の芽も枯れ果てた領土へ臨んで、民力の恢復(クワイフク)を計つたので、百姓たちのひとみにも、生々(いき/\)と、希望が甦(よみがへ)つて来た。
ところが、百姓たちの謳歌して伝へるその名声を耳にして
「なに。——劉玄徳が徐州を領したと。あの玄徳が、徐州の太守に坐つたのか」
いかにも意外らしく、又、軽蔑しきつた口吻(くちぶり)で、かう洩らしたのは、曹操であつた。
彼は、その新しい事実を知ると意外としたばかりでなく、非常に怒つて云つた。
「死んだ陶謙は、わが亡父の讐(あだ)なることは、玄徳も承知のはずだ。その讐はまだ返されてゐないではないか。——然(しか)るに玄徳が、半箭(ハンセン)の功もなき匹夫の分際をもつて、徐州の太守に居坐るなどゝは、言語道断な沙汰だ」
曹操は、いづれ自分のものと、将来の勘定に入れてゐた領地に、思はぬ人間が、善政を布いて立つたので、違算を生じたばかりでなく、感情の上でも、甚だ面白くなかつたのであらう。
「予と徐州の〔いきさつ〕に傍点]を承知しながら、徐州の牧に任ずるからには、それに併せて、この曹操にも宿怨を買ふことは、彼は覚悟の上で出たのだらう。——このうへは先(ま)づ劉玄徳を殺し、陶謙の屍をあばいて、亡父の怨を雪(そゝ)がねばならん!」
曹操は、直(たゞち)に、軍備を命じた。
すると、それを諫めたのは、荀彧であつた。——召抱へられた時、曹操から
(そちは我が張子房なり)
と、云はれた人物であつた。
荀彧が云ふには、
「今居るこの地方は、天下の要衝で、あなたに取つては、大事な根拠地です。その兗州の城は、呂布に奪はれてゐるではありませんか。しかも、兗州を囲めば、徐州へ向ける兵は不足です。徐州へ総がゝりになれば、兗州の敵の地盤は固まるばかりです。徐州も陥ちず、兗州も奪還できなかつたら、あなたはどこへ行かれますか」
「しかし、食糧もない飢饉の土地に、しがみついてゐるのも、良策ではあるまいが」
「さればです。——今日の策としては、東の地方、汝南(ジヨナン)(河南省・汝南)から潁州(エイシウ)の一帯で、兵馬を養つておくことです。あの地方には猶(なほ)、黄巾の残党共が多くゐますが、その草賊を討つて、賊の糧食を奪ひ、味方の兵を肥やしてゆけば、朝廷に聞えもよく、百姓も歓迎しませう。これが一石二鳥といふものです」
「よからう。汝南へ進まう」
曹操は、気のさつぱりした男である。人の善言を聴けば、すぐ用ひるところなど彼の特長といへよう。——彼の兵馬はもう東へ東へと移動を開始してゐた。
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次回 → 牛と「いなご」(四)(2024年6月5日(水)18時配信)