第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 牛と「いなご」(一)
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こゝに、徐州の太守陶謙は又、誰に我がこの国を譲つて死ぬべきや——を、日(ひ)毎(ごと)、病床で考へてゐた。
「やはり、劉備玄徳を措いては、他にない」
彼はもう年七十に垂(なんな)んとしてゐた。殊(こと)にこんどは重態である。自ら命数を感じてゐる。けれど、国の将来に安心の見とほしがつかないのが、何としても心の悩みであつた。
「お前等はどう思ふ」
枕頭に立つてゐる重臣の糜竺(ビジク)、陳登(チントウ)のふたりへ、鈍い眸をあげて云つた。
「ことしは、〔いなご〕の災害のために、曹操は軍をひいたが、来春にでもなれば又、捲土重来(ケンドチヨウライ)してくるだらう。その時、ふたたび又、呂布が彼の背後を襲ふやうな天佑があつてくれゝば助かるが、さういつも奇蹟はあるまい。わしの命数も、この容子では、いつとも知れないから、今のうちに是非、確たる後継者をきめておきたいが」
「御もつともです」
糜竺は、老太守の意中を察してゐるので、自分からすゝめた。
「もう一度、劉玄徳どのをお招きになつて、懇(ねんご)ろにお心を訴へてごらんになつては如何ですか」
陶謙は、重臣の同意を得て、少し力づいたものゝ如く、
「早速、使いを派してくれ」
と、云つた。
使(つかひ)をうけた玄徳は、取る物も取りあへず、小沛から駈けつけて、太守の病を見舞つた。
陶謙は、枯木のやうな手をのばして、玄徳の手を握り、
「あなたが、うんと承諾してくれないうちは、わしは安心して死ぬ事ができない。どうか、世の為に、又、漢朝の城地を守るために、この徐州の地をうけて、太守となつてもらひたいが」
「いけません。折角ですが」
玄徳は、依然として、断りつゞけた。そして——
(あなたには、二人の御子息があるのに)
と、理由を云ひかけたが、それを云ふと又、重態の病人が、出来の悪い不肖の実子の事に就(つい)て、昂奮して語り出すといけないので、——玄徳はたゞ、
「私は、その器でありません」
と、ばかり頑(かたく)なに首をふり通してしまつた。
そのうちに、陶謙は、遂に息をひきとつてしまつた。
徐州は喪を発した。城下の民も城士もみな喪服を着け、哀悼のうちに籠つた。そして葬儀が終ると、玄徳は小沛へ帰つたが、すぐ糜竺、陳登などが代表して、彼を訪れ、
「太守が生前の御意であるから、まげても領主として立つていたゞきたい」
と、再三再四、懇請した。
すると又、次の日、小沛の役所の門外に、わい/\と一揆のやうな領民が集まつて来た。——何事かと、関羽、張飛を従へて、玄徳が出てみると、何百とも知れない民衆は、彼の姿をそこに見出すと
「オヽ、劉備さまだ」
と、一斉に大地へ坐りこんで、声をあはせて訴へた。
「わたくし共百姓は、年々戦争には禍(わざはひ)され、今年は〔いなご〕の災害に見舞はれて、もうこの上の望みと云つたら、よい御領主様がお立ちになつて、御仁政をかけて戴(いたゞ)くことしかございません。もし、あなた様でなく他の御方が、太守になるやうでもあつたら、私共は、闇夜から闇夜を彷徨(さまよ)はなければなりません。首を縊(くく)つて死ぬ者がたくさん出来るかも知れません」
中には、号泣する者もあつた。
その愍(あは)れな飢餓の民衆を見るに及んで、劉備も遂に意を決した。即ち太守(タイシユ)牌印(ハイイン)を受領して、小沛から徐州へ移つたのである。
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次回 → 牛と「いなご」(三)(2024年6月4日(火)18時配信)