第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 死活往来(五)
***************************************
「もはや事の半(なかば)は成就したも同じだ」
曹操は左右へ云つて、
「——だが、夜に入るまでは、息つぎの小(こ)競(ぜり)合(あひ)に止めておいて敵が誘ふとも深入りはするな」
と、誡(いまし)めた。
城下の商戸はみな戸を閉ざし、市民はみな逃げ去つて町は昼ながら夜半のやうだつた。曹操の軍馬はそこ此処に屯(たむろ)して、食物や飲水を求めたり、夜の総攻撃の準備をしてゐた。
果(はた)して、城兵は奇襲して来た。辻々で少数の兵が衝突して、一進一退をくり返してゐるうちに陽はやがて、とつぷり暮れて来た。
薄暮の〔どさくさ〕紛れに一人の土民が曹操のゐる本陣へ走りこんできた。捕へて詰問すると、
「田氏から使(つかひ)です」
と、密書を示して云ふ。
曹操は聞くとすぐ取寄せて披(ひら)いてみた。紛れない田氏の筆蹟である。
初更(シヨカウ)の星、燦々の頃
城上に銅鑼鳴るあらん
機、逸し給ふ勿(なか)れ、即前進。
衆民、貴軍の蹄戛(テイカツ)を待つや久し
鉄扉、直(たゞち)に内より開かれ
全城を挙げて閣下に献ぜん
「よしつ。機は熟した」
曹操は、密書の示す策に依つて、すぐ総攻撃の配置にかゝつた。
夏侯惇と曹仁の二隊は、城下の門に停めておいて、先鋒には夏侯淵、李典、楽進と押しすゝめ、中軍に典韋等の四将を以(もつ)て囲み、自身はその真ん中に大将旗を立てゝ指揮に当り、重厚な陣形を作つて徐々と内城の大手へ迫つた。
併(しか)し李典は、城内の空気に、何か変な静寂を感じたので、
「一応、われ/\が、城門へぶつかつて、小当りに探つてみますから、御大将には、暫時、進軍をお待ちください」
と、忠言してみた。
曹操は気に入らない顔をして、
「兵機というものは機を外しては、一瞬勝(かち)目(め)を失ふものだ。田氏の合図に手違ひをさせたら、全線が狂つてしまふ」
と云つて肯(き)き入れないのみか、なほ逸(はや)つて自身、真つ先に馬を進めだした。
月はまだ昇らないが満天の星は宵ながら繚乱と燦(きら)めいてゐた。たツたたツたツ——と曹操に馳けつづく軍馬の蹄が城門に近づいたかと思ふと、西門あたりに当つて、陰々と法螺貝(ほらがひ)の音が尾をひいて長く鳴つた。
「やつ、何だつ」
寄手の諸将はためらひ合つたが、曹操はもう濠(ほり)の吊橋を騎馬で馳け渡りながら、
「田氏の合図だつ。何をためらつてゐるか。この機に突つこめつ——」
と、振向いてどなつた。
とたんに、正面の城門は、内側から八文字に開け放されてゐた。——さては、田氏の密書に噓はなかつたかと、諸将も勢ひこんで、どつと門内へなだれ入つた。
——が、途端に、
「わあつ……」
と、闇の中で、喊声(カンセイ)が揚つた。敵か味方か分らなかつたし、もう怒濤のやうに突貫の行き足がついてゐるので、遽(にはか)に、駒を止めて見廻してもゐられなかつた。
すると、どこからともなく、石の雨が降つて来た。石垣の陰や、州の政庁の建物などの陰から、同時に無数の松明(たいまつ)が光りかゞやき、その数は何千か知れなかつた。
「や、や、やつ?」
疑ふ間に投げ松明だ。軍馬の上に、大地に、盔(かぶと)に、袖に、火の雨が注がれ出したのである。曹操は仰天して、突然、
「不可(いか)んつ。——敵の謀計にひツかゝつた。退却しろ」
と、声をかぎりに後(うしろ)へ叫んだ。
***************************************
次回 → 死活往来(七)(2024年5月29日(水)18時配信)