本日午前中に誤って明日配信予定のものが配信されてしまいました。申し訳ありません!
改めて明日18時に同内容のもの(本日の続き)を配信いたします。
第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 死活往来(六)
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敵の計に陥ちたと覚つて、曹操が、しまつたと馬首を回(めぐ)らした刹那、一発の雷砲が、どこかで轟(ど)ん——と鳴つた。
彼につづいて突入してきた全軍は、忽ち混乱に墜ちた。奔馬と奔馬、兵と兵が、方向を失つて渦巻くところへ猶(なほ)、
「どうしたつ?」
「早く出ろ」
と、後続の隊は、後から/\と押して来た。
「退却だつ」
「退くのだつ」
混乱は容易に救はれさうもない。
石の雨や投げ松明(たいまつ)の雨が熄(や)んだと思ふと、城内の四門がいちどに口を開いて、中から呂布の軍勢が、
「寄手の奴らを一人も生かして帰すな」
と、東西から挟撃した。
度を失つた曹操の兵は、網の中の魚みたいに意気地もなく殲滅された。討たれる者、生捕られる者数知れなかつた。
さすがの曹操も狼狽して、
「不覚/\」
と憤然、唇を嚙みながら、一時北門から逃げ退(の)かうとしたが、そこにも敵軍が充満してゐた。南門へ出ようとすれば南門は火の海だつた。西門へ奔(はし)らうとすれば、西門の両側から伏兵が現れてわれがちに喚きかゝつてくる。
「御主君々々々。血路はこゝに開きました。早く/\」
彼を呼んだのは悪来の典韋であつた。典韋は、歯をかみ眼をいからして、簇(むらが)る敵兵を蹴ちらし、曹操のために吊橋の道を斬り開いた。
曹操は、征矢(そや)の如く駆け抜けて城下の町へ走つた。殿(しんがり)となつた悪来も、後を追つたが、もう曹操の姿は見あたらない。
「おういつ。……わが君つ」
悪来が捜してゐると
「典韋ぢやないか」
と、誰か一騎、馳け寄つて来た味方がある。
「オヽ、李典か、御主君の姿を見なかつたか」
「自分も、それを案じて、お捜し申してゐるところだ」
「何(ど)う落ちて行かれたやら」
兵を手分けして、二人は八方捜索にかゝつたが、皆目知れなかつた。
何処(いづこ)を見ても火と黒煙と敵兵だつた。曹操自身さへ南へ馳けてゐるのか西へ向つてゐるのか分らない。たゞ果(はて)しない乱軍の囲みと炎の迷路だつた。その中から何(ど)うしても出る事ができないほど、頭脳も顚倒(テンタウ)してゐた。
——すると彼方の暗い辻から、一団の松明が、赤々と夜霧を滲(にじ)ませて曲つて来た。
近づいて見る迄(まで)もなく敵にちがひない。曹操は、
「南(な)無(む)三(さん)」
と、思つたが、あわてゝ引つ返しては却(かへ)つて怪しまれる。肚(はら)をすゑて、そのまゝ行き過ぎようとした。
何ぞ計らん、従者の松明に囲まれて戞々(カツカツ)と歩いて来たのは、敵将の呂布であつた。例の凄まじい大戟を横たへ、左に赤兎馬の手綱を持つて悠然と来る姿が、はつと、曹操の眸に大きく映つた。
恟(ぎよ)つとしたが、既に遅し!である。曹操は顔を反(そ)向(む)け、その顔を手で隠しながら、何気ない素振りを装つて摺(す)れ交つた。
すると呂布は、何思つたか、戟の先を伸ばして曹操の盔(かぶと)の鉢金を〔こつん〕と軽く叩いた。そして——恐らくは自分の味方の将と間違へたのだらう、かう訊ねた。
「おい。曹操はどつちへ逃げて行つたか知らんか。——敵の曹操は?」
「はつ」
曹操は、作り声で、
「それがしも彼を追跡しているところです。何でも、毛の黄色い駿足に跨(また)がつて、彼方へ走つて行つたさうで」
と、指さすや否、その方角へ向つて、一散に逃げ去つた。
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次回 → 死活往来(八)(2024年5月30日(木)18時配信)