第一回 → 黄巾賊(一)
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こゝ呂布は連戦連勝だ。
失意の漂泊(さすらひ)をつゞけてゐた一介の浪人は、又忽ち濮陽城の主だつた。先に曹操を思ふさま痛めつけて、城兵の士気は嫌(いや)が上にも昂(たか)まつてゐた。
「この土地に、田(デン)氏という旧家があります。ごぞんじですか」
謀士の陳宮が、唐突に云ひ出した事である。呂布も近頃は、彼の智謀を大いに重んじてゐたので、又何か策があるかと、
「田氏か。あれは有名な富豪だらう。召使つてゐる童僕も数百人に及ぶと聞いてゐるが」
「さうです。その田氏をお召出しなさいまし。密(ひそか)に」
「軍用金を命じるのか」
「そんなつまらない事ではありません。領下の富豪から金を搾り取るなんていふ事は、自分の蓄へを気短かに喰つてしまふやうなものです。大事さへ成れば、黄金財宝は、争つて先方が御城門へ運んで来ませう」
「では、田氏をよびつけて何をさせるのか」
「曹操の一命を取るのです」
陳宮は、声をひそめて、何か密々(ひそ/\)と呂布に説明してゐた。
それから数日の後。
ひとりの百姓が、竹竿の先に鶏(とり)の蒸したのを苞(つと)にくるんだのを縛つて、肩にかつぎながら、寄手の曹操の陣門近くをうろついてゐた。
「迂散(ウサン)な奴」
と、捕へてみると、百姓は
「これを大将に献じたい」
と、伏し拝んでいふ。
「密偵だらう」
と、有無を云はさず、曹操の前へ引つぱつて来た。すると百姓は態度を変へて、
「人を払つて下さい、いかにも私は密使です。けれど、あなたの不為(ふため)になる使(つかひ)ではありません」
と、云つた。
近臣だけを残して、士卒たちを遠ざけた。百姓は、鶏の苞を刺してゐた竹の節(ふし)を割つて、中から一片の密書を出して曹操の手へ捧げた。
見ると、城中第一の旧家で富豪という聞えのある田氏の書面だつた。呂布の暴虐に対する城中の民の恨みが綿々と書いてある。こんな人物に城主になられては、わたくし達は他国へ逃散(タウサン)するしかないとも誌(しる)してある。
そして、密書の要点に入つて、
(——今、濮陽城は留守の兵しかゐません。呂布は黎陽へ行つてゐるからです。即刻、閣下の軍をお進め下さい。わたくし共は機を計つて内応し、城中から攪乱(カクラン)します。義の一字を大きく書いた白旗を城壁のうへに立てますから、それを合図に、一挙に濮陽の兵を殲滅なさるやうに禱(いの)る。——機は正に今です)
と、ある。
曹操は、破顔して欣(よろこ)んだ。
「天、われに先頃の雪辱をなさしめ給ふ。濮陽はもう掌のうちの物だ!」
使を犒(ねぎら)つて、承諾の返辞を持たせ帰した。
「危険ですな」
策士の劉曄(リウエウ)がいつた。
「念のため、軍を三分して、一隊だけ先へ進めてごらんなさい。呂布は無才な男ですが、陳宮には油断はできません」
曹操も、その意見を可(よし)として、三段に軍を立てゝ、徐々と敵の城下まで肉薄して行つた。
「オヽ、見える」
曹操は北(ほく)叟(そ)笑(え)んだ。
果(はた)せるかな、大小の敵の旌旗(セイキ)が吹き靡(なび)いてゐる城壁上の一角——西門の上あたりに一(イチ)旒(リユウ)の白い大旗がひるがへつてゐた。手をかざして見る迄(まで)もなく、その旗には明(あきら)かに「義」の一字が大書してあつた。
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次回 → 死活往来(六)(2024年5月28日(火)18時配信)