第一回 → 黄巾賊(一)
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——時に、彼方から誰やらん、おうつ——と吠えるやうな声がした。
見れば、左右の手に、重さ八十斤もあらうかと見える戟(ほこ)を提げ、敵の真つたゞ中を斬(きり)開(ひら)いて馳せつけて来る者がある。馬も人も、朱血(あけ)を浴びて、焰が飛んで来るやうだつた。
「御主君、御主君つ。馬をお降りあれ。そして地へ這ひつくばり、暫(しばら)く敵の矢をおしのぎあれ」
矢攻めの中に立ち往生してゐる曹操へ向つて、彼は近よるなり大声で注意した。
誰かと思へば、これなん先頃召抱へたばかりの悪来——彼(か)の典韋であつた。
「おゝ、悪来か」
曹操は急いで馬を跳び下り、彼のいふ通り地へ這つた。
悪来も馬を降りた。両手の戟を風車のやうに揮つて矢を払つた。そして敵軍へ向つて濶歩しながら、
「そんなヘロ/\矢がこの悪来の身に立つて堪(たま)るか」
と、豪語した。
「小癪なやつ。打殺せ」
五十騎ほどの敵が一かたまりになつて馳けて来た。
悪来は善く戦ひ、敵の短剣ばかり十本も奪ひ取つた。彼の戟はもう鋸(のこぎり)のやうになつてゐたので、それを抛(なげう)つて、十本の短剣を身に帯びて、曹操の方を振向いた。
「——逃げ散りました。今のうちです。さあおいでなさい」
彼は、徒歩(かち)のまゝ、曹操の轡(くつわ)を把(と)つて、又馳け出した。二、三の従者もそれにつゞいた。
けれど矢の雨は猶(なほ)、主従を目がけて注いで来た。悪来は、盔(かぶと)の錣(しころ)を傾けてその下へ首を突つ込みながら、真つ先に突き進んでゐたが、又も一団敵が近づいて来るのを見て、
「おいつ、士卒」
と、後へどなつた。
「——おれは、かうしてゐるから、敵のやつが、十歩の前まで近づゐたら声をかけろ」
と命じた。
そして、矢(や)唸(うな)りの流れる中に立つて、眠り鴨のやうに、顔へ錣(しころ)を翳(かざ)してゐた。
「十歩ですつ」
と、後で彼の従者が教へた。
途端に、悪来は、
「来たかつ」
と、手に握つてゐた短剣の一本をひゆつと投げた。
われこそと躍り寄つて来た敵の一騎が、どうつと、鞍から〔もんどり〕打つて転げ落ちた。
「——十歩ですつ」
又、後で聞えた。
「おうつ」
と、短剣が宙を切つて行く。
敵の騎馬武者が見事に落ちる。
「十歩つ」
剣はすぐ飛魚の光を見せて唸つてゆく——
さうして十本の短剣が、十騎の敵を突き殺したので、敵は怖れをなしたか、土煙りの中に馬の尻を見せて逃げ散つた。
「笑止なやつ等(ら)だ」
悪来はふたゝび曹操の駒の轡を把(と)つて、逃げまどふ敵の中へ突ツ込んで行つた。そして敵の武器に依つて敵を薙(な)で斬りにしながら、漸(やうや)く一方の血路をひらいた。
山の麓まで来ると、旗下(キカ)の夏侯惇が数十騎をつれて逃げのびて来たのに出会つた。味方の手(て)負(をひ)と討死は、全軍の半分以上にものぼつた。——惨憺たる敗戦である。いや曹操の生命が保たれたのはむしろ奇蹟と云つてよかつた。
「其方(そち)がゐなかつたら、千に一つもわが生命はなかつたろう」
曹操は、悪来へ云つた。——夜に入つて大雨となつた。越えてゆく山嶮は滝津瀬にも似てゐた。
帰つてから悪来の典韋は、この日の功に依つて、領軍(リヤウグン)都尉(トヰ)に昇級された。
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次回 → 死活往来(五)(2024年5月27日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。