第一回 → 黄巾賊(一)
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城兵の士気は甦(よみがへ)つた。
孤立無援の中に、苦闘してゐた城兵は、思わぬ劉玄徳の来援に、幾たびも歓呼をあげて振(ふる)つた。
老太守の陶謙は、
「あの声を聞いて下さい」
と、歓びに顫(ふる)へながら、玄徳を上座に直すと、直ちに太守の佩印(ハイイン)を解いて、
「今日からは、この陶謙に代つて、あなたが徐州の太守として、城主の位置について貰ひたい」
と、云つた。
玄徳は驚いて、
「飛んでもない事です」
と、極力辞退したが、
「いや/\、聞説(きくならく)、あなたの祖は、漢の宗室といふではないか。あなたは正しく帝系の血をうけてゐる。天下の擾乱(ゼウラン)を鎮(しづ)め、紊(みだ)れ果てた王綱(ワウカウ)を正し、社稷を扶(たす)けて万民へ君臨さるべき資質を持つてをられるのだ。——この老人の如きは、もう何の才能も枯れてゐる。徒(いたづ)らに、太守の位置に恋々としてゐる事は、次に来る時代の黎明を遅くさせるばかりぢや。わしは今の位置を退(ひ)きたい。それを安んじて譲りたい人物も貴公以外には見当らない。どうか微衷(ビチユウ)を酌んで曲げても御承諾ねがひたい」
陶謙のことばには真実がこもつてゐた。うはさに聞いてゐた通り、私心のない名太守であつた。世を憂ひ民を愛する仁人であつた。
けれど劉備玄徳は、猶(なほ)、
「自分はあなたを扶けに来た者です。若い力はあつても、老臺(ラウダイ)のやうな徳望はまだありません。徳のうすい者を太守に仰ぐのは、人民の不幸です。乱の基です」
と、どうしても、彼も又、固辞して肯(き)き容(い)れなかつた。
張飛、関羽のふたりは、彼のうしろの壁際に侍立してゐたが、
「つまらない遠慮をするものだ。どうも大兄は律義すぎて、現代人で無さ過ぎるよ、……よろしいと、受けてしまへばよいに」
と、歯(は)痒(がゆ)さうに、顔(かほ)見(み)合(あは)せてゐた。
老太守の熱望と、玄徳の謙譲とが、お互ひに相手を立てゝゐるのに果(はて)しなく見えたので、家臣糜竺(ビヂク)は、
「後日の問題になされては如何(いかゞ)ですか。何分城下は敵の大軍に満ちてゐる場合ではあるし」
と、側から云つた。
「いかにも」
二人もうなづいて、即刻、評議をひらき、軍備を問ひ、その上で、一応はこの解決を外交策に訴へてみるも念の為(ため)であるとして、劉玄徳から曹操へ使(つかひ)を立て、停戦勧告の一文を送つた。
曹操は、玄徳の文を見ると、
「何。……私の讐(あだ)事(ごと)は後にして、国難を先に扶(たす)けよと。……劉備ごときに説法を受けんでも、曹操にも大志はある。不遜な奴めが」
と、それを引つ裂いて、
「使者など斬つてしまへ」
と、一喝に退けた。
時しもあれ、その時、彼の本領地の兗州から、続々早(はや)打(うち)が駆けつけて来て、
「たいへんです。将軍の留守を窺(うかゞ)つて、突如、呂布が兗州へ攻めこみました」
と、次々に報(しら)せて来た。
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呂布がどうして、曹操の空巣をねらつてその根拠地へ攻めこんできたのであらうか。
彼も、都落ちの一人である。
李傕、郭汜などの一味に、中央の大権を握られ、長安を去つた彼は、一時、袁術の所へ身を寄せてゐたが、その後(ゴ)又、諸州を漂泊して陳留の張邈を頼り、久しくそこに足を留めてゐた。
すると一日(あるひ)、彼が閣外の庭先から駒を寄せて、城外へ遊びに出かけようとしてゐると、
「噫(あゝ)、近頃は天下の名馬も、無駄に肥えてをりますな」
呂布の顔の側へきて、わざと皮肉に呟(つぶや)いた男があつた。
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次回 → 死活往来(二)(2024年5月23日(木)18時配信)