第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 秋雨(あきさめ)の頃(三)
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復讐の大軍を催して、曹操が徐州へ攻進するという噂が諸州へ聞え亘(わた)つた前後、
「ぜひ会はせて下さい」
と、曹操を陣門に訪ねて来た者があつた。
それは陳宮であつた。
陳宮は、曽(か)つて曹操が、都から落ちて来る途中、共に心肚(シント)を吐いて、将来を盟(ちか)ひ合つたが、やがて曹操の性行を知つて、
(この人は、王道に拠(よ)つて、真に国を憂ふる英雄ではない。むしろ国乱をして、いよいよ禍乱(クワラン)へ追ひ込む覇道の姦雄(カンユウ)だ)
と怖れをなして、途中の旅籠(はたご)から彼を見限り、彼を棄てゝ行方を晦(くら)ましてしまつた旧知であつた。
「君は今、何してゐるのか」
曹操に訊かれると、陳宮は、すこし間が悪さうに、
「東郡の従事といふ小役人を勤めてゐます」
と、答へた。
すると曹操は、皮肉な笑みをたたへながら、早くも相手の来意を読んでゐた。
「ぢやあ、徐州の陶謙とは親しい間がらとみえるね。多分君は、その知己のために、余を宥(なだ)めに来たのだらうが、怖らく君の懇願も、この曹操の恨みと憤りを解くのは不可能だと思ふ。——まあ遊んで行き給(たま)へ」
「お察しの通りな目的で来ました。小生の知る陶謙は、世に稀(まれ)な仁人(ジンジン)です、君子です。——御尊父がむごたらしい難に遭はれたのは、まつたく陶謙の罪ではなく、張闓の仕(し)業(わざ)です。小生は、故(ゆゑ)なき戦乱のため、仁君子(ジンクンシ)が苦しめられ、同時に将軍の声望が傷つけられんとするのを見て、悲しまずにゐられません」
「ばかをいへ」
曹操は、今までの微笑を一喝に変へて云ひ放つた。
「父や兄の恨みを雪(そゝ)ぐのが、何でわが声望の失墜になるか、君は元来、逆境の頃の余を見捨てゝ走つた男ではないか、人に向つて遊説して歩く資格があると思ふのか」
陳宮は、顔赤らめて、辞し去つたが、その不成功を、陶謙に復命する勇気もなく、そこから陳留の太守張邈の所へ走つてしまつた。
かくて「報讐雪恨」の大旗は、曹操の怒りにまかせて、陶謙の胆(きも)を抉(えぐ)り肉を喰らはねば熄(や)まじ——とばかりの勢ひで、徐州城下へ向つて進発した。
行く行くこの猛軍は人民の墳墓をあばいたり、敵へ内通する疑ひのある者などを、仮借(カシヤク)なく斬つて通つたので、民心は極端に恐れわなゝいた。
徐州の老太守陶謙は、
「曹操の軍には、とても敵しやうもない。彼の恨みをうけたは皆、自分の不徳である。——自分は縛(バク)をうけて、甘んじて、彼の憤刀(フンタウ)へこの首を授けようと思ふ。そして百姓や城兵の命乞ひを彼に縋(すが)らう」
諸将を集めてさう告げた。
然(しか)し、将の大部分は、
「そんな事はできません。太守を見殺しにして、何で自分等のみ助けをうけられませうや」
と、策を議して、北海(ホクカイ)(山東省・萊州)に急使を派し、孔子二十世の孫で泰山の都尉(トヰ)孔宙(コウチウ)の子孔融に援(たす)けを頼んだ。
折から又、黄巾の残党が集結して、各所で騒ぎだしてゐた。北平の公孫瓚も、国境へ征伐に向つてゐたが、その旗下にあつた劉備玄徳は、ふと徐州の兵変を聞いて、義のため、仁人の君子といふうはさのある陶謙を援けに行きたいと、公孫瓚にはなしてみた。
公孫瓚は、むしろ不賛成で、
「よしては何(ど)うだ。何も君は曹操に恨みがあるわけでもなし、陶謙に恩もないだらうに」
と、止めた。
けれど、玄徳は、義の廃(すた)れた今、義を示すのは今だと思つた。強(し)ひて暇(いとま)を乞ひ、又、幕僚の趙雲を借りて、総勢五千人を率ゐ、曹操の包囲を突破して、遂に徐州へ入城した。
太守陶謙は、手をとらんばかり玄徳を迎へ、
「今の世にも、貴君のごとき義人があつたか」
と、涙をたゝへた。
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次回 → 死活往来(一)(2024年5月22日(水)18時配信)