第一回 → 黄巾賊(一)
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曹操は、一日ふと、
「おれも今日迄(まで)になるには、随分親に不孝をかさねて来た」
と、故山の父を思ひ出した。
彼の老父は、その頃もう故郷の陳留にもゐなかつた。瑯琊(ロウヤ)といふ片田舎に隠居してゐると聞くのみであつた。
山東一帯に地盤もでき、一身の安定もつくと、曹操は老父をさうしておいては済まないと思ひ出した。
「わしの厳父を迎へて来い」
彼は、泰山の太守応劭(オウセウ)を、使(つかひ)として、遽(にはか)に瑯琊へ向けた。
迎へをうけて、曹操の父親の曹嵩は、夢かとばかり歓んだ。それと共に、周囲へ向つて、
「それみろ」
と、曹嵩の息子自慢はたいへんなものだつた。
「彼(あ)れの叔父貴も、親類共も、曹操が少年時分には行末が案じられる不良だなどと、口を極めて、悪く云ひをつたが——なアに、あいつは見所があるよと、大〔まか〕に許してゐたのは、わしばかりぢやつた。やはりわしの眼には狂ひがなかつたんぢや」
落(おち)魄(ぶ)れても、一家族四十何人に、召使(めしつかひ)も百人からゐた。それに家財道具を、百餘輛の車につんで、曹嵩一家は、早速、兗州へ向つて出発した。
折から秋の半(なかば)だつた。
「楓林停車(フウリンテイシヤ)」といふ南画の画題そのまゝな旅行だつた。老父は時折、紅葉の下に車を停めさせて、
「こんな詩ができたが何(ど)うぢや。——ひとつ曹操に会つたら見せてやらう」
などと興じてゐた。
途中、徐州(江蘇省・徐州)まで来ると、太守陶謙が、わざ/\自身、郡境まで出迎へに出てゐた。そして、
「ぜひ、こよひは城内で」
と、徐州城に迎へ、二日に亘(わた)つて下へも措(お)かないほど歓待した。
「一国の太守が、老(おい)ぼれのわしを、こんなに待遇するはずはない。曹操が偉いからだ。思へばわしはよい子を持つた」
曹嵩は、城内にゐる間も、息子自慢で暮してゐた。
事実、こゝの太守陶謙は豫(かね)てから曹操の盛名を慕つて、折あれば曹操と誼(よし)みを結びたいと思つてゐたが、よい機会もなかつたのである。——ところへ、曹操の父が一家を挙げて、自分の領内を通過して兗州へ引移ると聞いたので、
「それはよい機会だ」
と、自身出迎へて、一行を城内に泊め、精いつぱいの歓迎を傾けたのであつた。
「陶謙は好い人らしいな」
曹操の老父は、彼の人物にふかく感じた。陶謙が温厚な君子人であることは、彼のみでなく、誰も認めてゐた。
恩を謝して、老父の一行は、三日目の朝、徐州を出発した。陶謙は特に、部下の張闓(チヤウガイ)に五百の兵隊をつけて、
「途中、間違ひのないやう、お送り申しあげろ」
と、いひつけた。
華費(クワヒ)といふ山中まで来ると、変りやすい秋空が俄(には)かに搔(か)き曇つて、いちめんの暗雲になつた。
青白い電光が閃(ひらめ)いて来たかと思ふと、ぽつ、ぽつと大粒の雨が落ちて来た。木の葉は、山風に捲(ま)かれ、峰も谷も霧にかくれて、何となく物凄い天候になつた。
「通り雨だ。どこか、雨宿りするところはないか」
「寺がある。山寺の門が」
「あれへ逃げこめ」
馬も車も人も雨に打ち叩かれながら山門の陰へ隠れこんだ。
そのうちに、日が暮れてきたので、
「こよひは此寺(こゝ)へ泊るから、本堂を貸してくれと、寺僧へ掛合つて来い」
と、張闓は兵卒へ命じた。
彼は日頃、部下にも気うけのよくない男と見え、濡鼠となつた兵隊は皆何か不平にみちた顔をしてゐた。
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次回 → 秋雨(あきさめ)の頃(三)(2024年5月20日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。