第一回 → 黄巾賊(一)
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諸州の浪人の間で、
「近ごろ兗州の曹操は、頻(しき)りと賢(ケン)を招き、士を募つて、有能の士には好遇を与へるといふぢやないか」
と、専ら評判であつた。
聞きつたへて、兗州(山東省・津浦線)へ志してゆく勇士や学者が多かつた。
こゝ山東の天地はしばらく静(しづか)だつたが、帝都長安の騒乱は、去年から度々聞えて来た。
「こんどは、李傕、郭汜などゝいふ者が、兵権も政権も左右してゐるさうだ」
とか、
「西涼軍は、粉(こ)ツぱ微塵(ミヂン)に敗れて、再起も覚つかないさうだ」
とか、又、
「李傕といふ男も、朝廷を切つてまはす位だから、前の董卓にも劣らない才物とみえる」
などゝ大国だけに、都の乱も他人事のやうに語つてゐた。
そのうちに、青州地方(済南の東)にまた黄巾賊が蜂起し出した。中央が乱れると、響(ひゞき)に答へるやうに、この草賊はすぐ騒ぎ出すのである。
朝廷から曹操へ、
「討伐せよ」
と、命が下つてきた。
曹操は、近頃、朝廷に立つて恣(ほしいまゝ)に兵馬政権をうごかしてる新しい廟臣たちを、内心では認めてゐない。
だが、朝廷といふ名に於て、命に服した。又、どんな機会にでも、自分の兵馬をうごかすのは一歩の前進になると考へるので、命を奉じた。
彼の精兵は、忽(たちま)ち、地方の鼠賊(ソゾク)を掃滅してしまつた。朝廷は、彼の功を嘉(よみ)し、新(あらた)に、「鎮東将軍」に叙した。
けれど、その封爵の恩典よりも、彼の獲た実利の方が遙(はるか)に大きかつた。
討伐百日の戦に、賊軍の降兵三十万、領民のうちから更に屈強な若者を選んで総勢百万に近い軍隊を新(あらた)に加へた。勿論、済北済南の地は肥沃であるから、それを養ふ糧草や財貨も有り餘るほどだつた。
時は初平三年十一月だつた。
こうして彼の門には、愈々(いよ/\)、諸国から、賢才や勇猛の士が集まつた。
曹操が見て、
「貴様は我が張子房(チヤウシバウ)である」
と許した程の人物、荀彧(ジユンイク)もその時に抱(かゝ)へられた。
荀彧はわづか二十九歳だつた。又甥の荀攸(ジユンシウ)も、行軍教授(カウグンケウジユ)として、兵学の才を用ひられて仕へ、その他、山中から招かれて来た程昱(テイイク)だの、野に隠れてゐた大賢人郭賀(クワクガ)だの、みな礼を篤うしたので、曹操の周囲には、偉材が綺羅星のごとく揃つた。
わけても、陳留(チンリウ)の典韋(テンヰ)は、手飼の武者数百人をつれて、仕官を望んで来た。身丈は一丈に近く、眼は百錬の鏡のやうだつた。戦へば常に重さ八十斤の鉄の戟(ほこ)を左右の手に持つて、人を討つこと草を薙(な)ぐにひとしいと豪語して憚(はゞか)らない。
「噓だらう」
曹操も信じなかつたが、
「さらば、お目にかけん」
と、典韋は、馬を躍らせて、言葉のとほり実演して見せた。ちやうど又、その折、大風が吹いて、営庭の大旗が仆(たふ)れかゝつたので、何十人の兵がかたまつて、旗竿を仆すまいと犇(ひし)めいてゐたが、強風の力には及ばず、あれよ/\と騒いでゐるのを見て、典韋は、
「みんな退け」
と、走りよつて、片手でその旗竿を握り止めてしまつたのみか、いかに烈風が旗を裂くほど吹いても、両掌を用ひなかつた。
「ウーム、古(いにしへ)の悪来(アクライ)にも劣らない男だ」
曹操も舌を巻いて、即座に彼を召抱へ、白(しろ)金襴(キンラン)の戦袍(センパウ)に名馬を与へた。
悪来といふのは、昔、殷(イン)の紂王(チウワウ)の臣下で、大力無双と名のあつた男である。曹操がそれにも勝ると称したので、以来、典韋の綽名(あだな)になつた。
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次回 → 秋雨(あきさめ)の頃(二)(2024年5月18日(土)18時配信)