第一回 → 黄巾賊(一)
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宮門に軍馬をならべて、官職を与へよと、強請する暴臣のさけびに、帝も浅ましく思はれたに違ひないが、その際、帝としても、如何(いかん)とする術もなかつた。
彼等の要求は認められた。
で——李傕は車騎将軍に、郭汜は後将軍(ゴシヤウグン)に、樊稠は右将軍に任ぜられた。
又、張済は驃騎将軍となつた。
匹夫みな衣冠して、一躍、廟堂に並列したのである。——実に、一個の董卓の掌から、天下の大権は、転々と騒乱のうちに弄ばれ、かうして又忽(たちま)ち、四人の掌に移つたのであつた。
猜疑心は、成りあがり者の持前である。彼等は、献帝のそばに迄(まで)、密偵を立たせておいた。
かういふ政府が、長く人民に平和と秩序を布(し)いてゆけるわけはない。
果(はた)して。
それから程なく。西涼の太守馬騰(バトウ)と、幷州(ヘイシウ)の刺史韓遂(カンスヰ)のふたりは、十餘万の大軍をあはせて、
「朝廟の賊を掃討せん」
と号して長安へ押しよせて来た
李傕たちの四将は、
「どうしたものか」
と、謀士賈詡に計つた。
賈詡は、一策を立てゝ、消極戦術をすゝめた。
長安の周囲の外城をかため、塁の上に塁を築き、溝は更に掘つて溝を深くし、いくら寄手が喚いて来ても、
「対手(あひて)にするな」
と、たゞ守り固めてゐた。
百日も経つと、寄手の軍は、すつかり意気を沮喪させてしまつた。糧草の缺乏やら、長期の滞陣に士気は倦(う)み、あげくの果(はて)に、雨期をこえてから夥(おびたゞ)しい病人が出たりして来たのである。
機を窺(うかゞ)つてゐた長安の兵は、一度に四門をひらいて寄手を蹴ちらした。大敗した西涼軍は、散々(サン/゛\)になつて逃げ走つた。
すると、その乱軍の中で、幷州の韓遂は、右将軍の樊稠に追ひつかれて、すでに一命も危かつた。
韓遂は、苦しまぎれに、以前の友誼を思ひ出してさけんだ。
「樊稠々々つ。貴公とわしとは同郷の人間ではないか」
「こゝは戦場だ。国乱をしづめる為(ため)には、個々の誼(よし)みも情も持てない」
「とはいへ、おれが戦ひに来たのも、国家のためだ。貴公が国士なら、国士の心もちは分るだらう。おれは君に討たれてもよいが、全軍の追撃をゆるめてくれ給(たま)へ」
樊稠は、彼のさけびに、つい人情に囚(とら)はれて、軍を返してしまつた。
翌日、長安の城内で勝軍の大宴がひらかれたが、その席上、四将の一人李傕は、樊稠のうしろへ廻つて、
「裏切者つ」
と、突然、首を刎ねた。
同僚の張済は驚きのあまり床へ坐つて、慄(ふる)へおのゝいてしまつた。李傕は、彼を扶け起して、
「君には何の科(とが)もない。樊稠はきのふ戦場で、敵の韓遂を故意に助けたから誅罰したのだ」
と、云つた。
それを目撃して叔父に密告したのは李傕の甥の李別(リベツ)といふ者だつた。李別は、叔父に代つて、
「諸君、かういふわけだ」
と、樊稠の罪を、席上の将士へ、大声で演舌した。
最後に、李傕は又、張済の肩をたゝいて、
「今も甥が云つたやうなわけで樊稠は刑罰に附したが、然(しか)し、貴公はおれの腹心だから、おれは貴公に何の疑ひも抱いてはをらんよ。安心し給へ」
と、樊稠隊の統率を、みな張済の手に移した。
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次回 → 秋雨(あきさめ)の頃(一)(2024年5月17日(金)18時配信)