第一回 → 黄巾賊(一)
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騒乱の物音が遠くする。
夜も陰々と。
昼間も轟々と。
宮中の奥ふかき所——献帝はじいつと蒼ざめた顔をしてをられた。
長安街上に躍る火の魔血の魔がそのお眸には見えるやうな心地であられたらう。
「皇宮の危機が迫りました」
侍従が云つて来た。
暫(しばら)くすると又、
「西涼軍が、潮のごとく、禁門の下へ押して参りました」
と、侍臣が奏上した。
——こんどは朝廷へ襲(や)つてくるな、と早(はや)、観念されたやうに、献帝は眼をふさいだ儘(まゝ)、
「ウム。……むむ」
頷かれただけだつた。
事実、朝臣すべても、この際、どうしたらいゝか、為(な)す事を知らなかつた。
すると侍従の一人が、
「彼等も、帝座の重きことは辨(わきま)へてをりませう。この上は、帝御自身、宜平門(ギヘイモン)の楼臺に上られて、乱を御制止あそばしたら、鎮まるだらうと思ひます」
と奏請(ソウセイ)した。
献帝は、玉歩(ギヨクホ)を運んで宜平門へ上つた。血に酔つて沸いてゐた城下の狂軍は、禁門の楼臺に瑤々(エウ/\)と翳(かざ)された天子の黄蓋(クワウガイ)にやがて気づいて、
「天子だ」
「御出御だ」
と、その下へ、わい/\と集まつた。
李傕、郭汜の二将は、
「しづまれつ。鎮(しづ)まれつ」
と、遽(にはか)に味方を抑へ、必死に暴兵を鎮圧して、自分等も、宜平門の下へ来た。
献帝は門上から
「汝等、何(なに)故(ゆゑ)に、朕がゆるしも待たず、恣(ほしいまゝ)に長安へ乱入したか」
と、大声で詰問された。
すると、李傕は、
「陛下つ。亡き董太師は、陛下の股肱であり、社稷の功臣でした。然(しか)るに、故(ゆゑ)なくして、王允等の一味に謀殺され、その死骸は、街路に辱しめられました。——それ故に、われわれ董卓恩顧の旧臣が、復讐を計つたのであります。謀叛では断じてありません。——今、陛下のお袖の陰にかくれている憎ツくき王允の身を、われ等にお下げ下さるなら、われ等は、即時禁門から撤兵します!」
と、宙を指さして叫んだ。
その声を聞くと、全軍、わあつと雷同して、献帝の答へ如何(いか)にと要求を迫る色を示した。
献帝は、御自身の横を見た。
そこには王允が侍してゐる。
王允は、蒼ざめた唇をかんで、眼下の大軍を睨んでゐたが、献帝の眸が自分の元にそゝがれたと知ると、やにはに起(た)つて
「一身何かあらん」
と、門楼のうへから身を抛(なげう)つて飛び降りた。
犇々(ひし/\)と林立してゐた戟(ほこ)や槍の上へ、彼の体は落ちて来た。
何で堪(たま)らう。
「おうつ、こいつだ」
「巨魁(キヨクワイ)つ」
「主の讐(かたき)め」
寄りたかつた剣槍は、忽ち、王允の体をずた/\にしてしまつた。
兇暴な彼等は、要求が容れられても、まだ退かなかつた。この際、天子を弑(シイ)し、一挙に大事を謀らんなど、区々(まち/\)な暴議をそこで計つてゐる様子だつた。
「だが、そんな無茶をしても、恐らく民衆が服従しないだらう。徐(おもむ)ろに、天子の勢力を削(そ)いで、それからの仕事をした方が賢明だらう」
樊稠や、張済の意見に、軍は漸(やうや)く鎮まつた気ぶりだが、猶(なほ)、退かないので帝は、
「はや、軍馬を返せ」
と、再び諭された。
すると壁下の暴将兵は、
「いや、王室へ功をいたしたわれわれ臣下にまだ勲爵(クンシヤク)の沙汰がないので、待つてゐるわけです」
と、官職の要求をした。
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次回 → 大権転々(四)(2024年5月16日(木)18時配信)