第一回 → 黄巾賊(一)
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都堂の祝宴にも、たゞひとり顔を見せなかつた大将がある。
呂布であつた。
「微恙(ビヨウ)のため」
と断つて来たが、病気とも思はれない。
長安の市民が七日七夜も踊り狂ひ、酒壺を叩いて、董卓の死を祝してゐる時、彼は、門を閉ぢて、ひとり慟哭してゐた。
「貂蟬。貂蟬つ……」
それは、わが家の後園を、狂気のごとく彷徨(さまよ)ひあるいてゐる呂布の声だつた。
そして、小閣の内へかくれると、そこに横たへてゐる貂蟬の冷たい体を抱きあげては又、
「なぜ死んだ」
と、頰ずりした。
貂蟬は、答へもせぬ。
彼女は、郿塢城の炎の中から、呂布の手にかゝへられて、この長安へ運ばれ、呂布の邸(やしき)にかくされてゐたが、呂布がふたゝび戦場へ出て行つた後で、ひとり後園の小閣にはいつて、見事、自刃してしまつたのである。
「もう貂蟬も、おれのものだ。曠(は)れておれの妻となつた」
やがて帰つて来た呂布は、それ迄(まで)の夢を打破られてしまつた。
貂蟬の自殺が、
「なぜ死んだか」
彼には解けなかつた。
「——貂蟬は、あんなにも、おれを想つてゐたのに。おれの妻となるのを楽しんでゐたのに」
と思ひ迷つた。
貂蟬は、何事も語らない。
だが、その死顔には、何の心残りもないやうであつた。
——為すべきことを為しとげた。
微笑の影すら唇(くち)のあたりに残つてゐるやうに見えた。
彼女の肉体は獣王の犠牲(にえ)に一(ひと)度(たび)は供されたが、今は彼女自身のものに立ち返つてゐた。天然の麗質は、死んでからよけいに珠(たま)のごとく燦(かゞや)いてゐた。死屍の感はすこしもなく、生けるやうに美しかつた。
呂布の煩悩は、果てしなく醒めなかつた。彼の一本気は、その煩悩までが単純であつた。
きのふも今宵も、彼は飯汁も喉へ通さなかつた。夜も、後園の小閣に寝た。
月は晦(くら)い。
晩春の花も黒い。
懊悩の果(はて)、彼は、貂蟬の胸に、顔を当てたまゝいつか眠つてゐた。ふと眼がさめると、深夜の気はひそとして、闇の窓から月が映(さ)してゐた。
「おや、何か?」
彼は、貂蟬の肌に秘められてゐた鏡嚢(かゞみぶくろ)を見つけて、何気なく解いた。中には、貂蟬が幼少から持つてゐたらしい神符(まもり)札(ふだ)やら麝香(ヂヤカウ)などが這(は)入(い)つてゐた。それと、一葉の桃花箋に詩を書いたのが小さく折(をり)畳(たゝ)んであつた。
詩箋は麝香に染みて、名花の芯を披(ひら)くやうな薫りがした。貂蟬の筆とみえ、いかにも優しい文字である。呂布は詩を解さないが、何度も読んでゐるうちに、その意味だけは分つた。
女の皮膚は弱いといふが
鏡に更(か)へて剣を抱けば
剣は正義の心を強めてくれる
わたしはすゝんで荊棘(ケイキヨク)へ入る
父母以上の恩に報いる為に
又それが国の為(ため)と聞くからに
楽器を捨て、舞踊する手に
匕首(ヒシユ)を秘めて獣王へ近づき
遂に毒杯を献じたり、右と左にそして最後の一(イツ)盞(サン)にわれを仆(たふ)しぬ
聞ゆ——今、死の耳に
長安の民が謡ふ平和の歓び
われを呼ぶ天上の迦陵頻伽(カリヨウビンガ)の声
「あ……あつ。では……?」
呂布も遂に覚つた。貂蟬の真の目的が何にあつたかを知つた。
彼は、貂蟬の死体を抱えて、いきなり馳け出すと、後園の古井戸へ投げこんでしまつた。それきり貂蟬のことはもう考へなかつた。天下の権を握れば、貂蟬ぐらゐな美人はほかにもあるものをと思ひ直した容子(ヨウス)だつた。
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次回 → 大権転々(一)(2024年5月13日(月)18時配信)
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