第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 人間燈(にんげんとう)(三)
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大奸を誅して、万歳の声は、禁門の内から長安の市街にまで溢れ伝はつたが、猶(なほ)
「この儘(まゝ)ではすむまい」
「どうなる事か」
と、戦々兢々たる人心の不安は去りきれなかつた。
呂布は、云つた。
「今日まで、董卓のそばを離れず、常に、董卓の悪行を扶(たす)けてゐたのは、あの李儒といふ秘書だ。あれは生かしておけん」
「さうだ。誰か行つて、相丞府(シヤウジヤウフ)から李儒を搦(から)め捕つて来い」
王允が命じると
「それがしが参らう」
李粛は答へるや否(いな)、兵をひいて、相丞府へ馳せ向つた。
すると、その門へ入らぬうちに、相丞府の内から、一団の武士に囲まれて、悲鳴をあげながら、引(ひき)ずり出されて来るあはれな男があつた。
見ると、李儒だつた。
相丞府の下部(しもべ)たちは、
「日頃、憎しと思ふ奴なので、董太師が討たれたりと聞くや否、かくの如く、われわれの手で搦め、これから禁門へつき出しに行くところでした。どうか、われわれには、お咎(とが)めなきやう、お扱ひねがいます」
と、訴へた。
李粛は、何の労もなく、李儒を生(いけ)擒(ど)つたので、すぐ引つ提(さ)げて、禁門に献じた。
王允は、直(たゞち)に、李儒の首を刎(は)ねて
「街頭に梟(か)けろ」
と、それを刑吏へ下げた。
なほ、王允が云ふには
「郿塢の城には、董卓の一族と、日頃養ひおいた大軍がゐる。誰か進んでそれを掃討してくる者はゐないか」
すると、声に応じて
「それがしが参る」
と、真つ先に立つた者がある。
呂布であつた。
「呂布ならば」
と、誰も皆、心にゆるしたが、王允は、李粛、皇甫嵩にも、兵をさづけ、約三万餘騎の兵が、やがて郿塢へさして下つて行つた。
郿塢には、郭汜(クワクシ)、張済(チヤウサイ)、李傕(リカク)などの大将が一万餘の兵を擁して、留守を護つてゐたが、
「董太師には、禁廷に於て、無残な最期を遂げられた」
との飛報を聞くと、愕然、騒ぎ出して、都の討手が着かないうちに、総勢、涼州方面へ落ちてしまつた。
呂布は、第一番に、郿塢の城中へ乗込んだ。
彼は、何者にも目をくれなかつた。
ひたむきに、奥へ走つた。
そして、秘園の帳内を覗きまはつて、
「貂蟬つ、貂蟬つ……」
と、彼女のすがたを血眼で探し求めた。
貂蟬は、後堂の一室に、黙然と佇(たゝず)んでゐた。呂布は、走りよつて、
「おいつ、歓べ」
と、固く抱擁しながら、物言はぬ体を揺すぶつた。
「欣(うれ)しくないのか。餘りの欣しさに口もきけないのか。貂蟬、おれはたうとうやつたよ。董卓を殺したぞ。これからは二人も晴れて楽しめるぞ。さあ、怪我をしては大変だ。長安へお前を送らう」
呂布はいきなり彼女の体を引つ抱へて、後堂から走り出した。城内にはもう皇甫嵩や李粛の兵がなだれ入つて、殺戮狼藉、放火、奪財、あらゆる暴力を、抵抗なき者へ下してゐた。
金銀珠玉や穀倉やその他の財物に目を奪(と)られている味方の人間共が、呂布には馬鹿に見えた。
彼は、貂蟬を慥(しか)と抱いて、乱軍の中を馳け出し、自分の金鞍(キンアン)に乗せて、一鞭(イチベン)、長安へ帰つて来た。
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次回 → 人間燈(にんげんとう)(五)(2024年5月10日(金)18時配信)