第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 人間燈(にんげんとう)(一)
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その夜は、さすがに彼も、婦女を寝室に置かず、眠りの清浄を守つた。
けれど、明日は、九五(キウゴ)の位をうける身かと思ふと、心気昂(たか)ぶつて、容易に眠りつけない様子だつた。
——と、室の外を。
戞(カツ)。戞。
と、誰か歩く靴音がする。
むくと、身を起し
「誰かつ」
と咎めると、帳の外に、まだ起きてゐた李粛が、
「呂布が見廻つてゐるのです」
と、答へた。
「呂布か……」
さう聞くと、彼はすつかり安心して微(かす)かに鼾(いびき)をかき初めたが、又、眼をさまして、頻(しき)りと、耳をそばだてゝゐた。
——遠く、深夜の街に、子ども等(ら)の謡(うた)ふ童歌が聞えた。
青々(セイセイ)、千里の草も
眼に青けれど
運命の風ふかば
十日の先は
生き得まじ
風に漂つてくる歌声は、深沈と夜をながれて、いかにも哀切な調子だつた。
彼は、それが耳について、
「李粛」
と、又呼んだ。
「は。まだお目をさましておいででしたか」
「あの童謡は、どういふ意味だらう。何だか、不吉な歌ではないか」
「その筈です」
李粛は、でたらめに、かう解釈を加へて、彼を安心させた。
「漢室の運命の終りを暗示してゐるんですから。——こゝは長安の帝都あしたから帝が代るのですから、無心な童謡にもそんな豫兆が現れないわけはありません」
「なる程。さうか……」
憐れむべし、彼は頷いて、程なく昏々と、ふかい鼾の中に陥ちた。
後に思へば。
童謡の「千里の草」というのは「董」の字であり、「十日の上」とは卓の字のことであつた。
千里草
何青々
十日先
猶不生
と街に歌つてゐた声は、すでに彼の運命を何者かゞ嘲笑してゐた暗示だつたのであるが、李粛の言にあやされて、さしもの奸雄も、それは我身ならぬ漢室のことだと思つてゐたのである。
朝の光は、彼の枕辺に映(さ)しこぼれてきた。
董卓は、斎戒沐浴した。
そして、儀仗をとゝのへ、きのふに勝る行装を凝らして、朝霧のうすく流れてゐる宮門へ向つて進んでゆくと、一旒(イチリウ)の白旗をかついで青い袍(ハウ)を着た道士が、ひよこり道を曲つてかくれた。
その白旗に、口の字が二つ並べて書いてあつた。
「何ぢや、彼(あ)れは」
董卓が、李粛へ問ふと、
「気の狂つた祈禱師です」
と、彼は答へた。
口の字を二つ重ねると「呂」の字になる。董卓はふと、呂布のことが気になつた。鳳儀亭で貂蟬と密会してゐた彼のすがたが思ひ出されて嫌(いや)な気もちになつた。
——と、もうその時、儀杖の先頭は、宮中の北掖門(ホクエキモン)へさしかゝつてゐた。
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次回 → 人間燈(にんげんとう)(三)(2024年5月8日(水)18時配信)