第一回 → 黄巾賊(一)
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そこは長安郊外の、幽邃(イウスヰ)な別業(ベツサウ)であつた。
呂布は、王允に誘(いざな)はれて、竹裡館の一室へ通されたが、酒杯(さかづき)を出されても、沈湎(チンメン)として、溶けぬ忿怒(フンヌ)に頸(うな)垂(だ)れてゐた。
「いかゞです、お一杯(ひとつ)」
「いや、今日は」
「さうですか。では、餘りおすゝめいたしません。心の楽しまぬ時は、酒を含んでも、徒(いたづ)らに、口には苦く、心は燃えるのみですから」
「王使徒」
「はい」
「察してくれ……。呂布は生れてからこんな無念な思ひは初めてだ」
「御無念でせう。けれど、私の苦しみも、将軍に劣りません」
「おぬしにも悩みがあるか」
「あるか——どころではないでせう。折角、将軍の室へ娶(めと)つていただかうと思つたわが養女(むすめ)を、董太師に汚され、貴郎(あなた)に対しては、義を缺(か)いてゐる。——又、世間は将軍をさして、わが女房を奪はれたる人よ、と蔭口をきくであらうと、わが身に誹(そし)りを受けるより辛く思はれます」
「世間がおれを嘲(わら)ふと!」
「董太師も、世の物笑ひとなりませうが、より以上、天下の人から笑ひ辱しめられるのは、約束の義を缺いた私と、将軍でせう。……でもまだ私は老(をい)ぼれの事ですから、如何する術(すべ)もあるまいと、人も思ひませうが、将軍は一世の英雄であり又、お年も壮(さかん)なのに、何たる意気地のない武士ぞと云はれ勝(がち)に極(きま)つてゐます。……どうぞ、私の罪を、おゆるし下さい」
王允が云ふと、
「いや、貴下の罪ではない!」
呂布は、憤然、床を鳴らして突つ立つたかと思ふと
「王使徒、見てをれよ。おれは誓つて、彼(あ)の老賊をころし、この恥をそゝがずには措かぬから」
王允は、わざと仰山(ギヤウサン)に、
「将軍、卒爾なことを口走り給(たま)ふな。もし、そのやうな事が外へ洩れたら、お身のみか、三族を亡(ほろぼ)されますぞ」
「いゝや、もうおれの堪忍もやぶれた。大丈夫たる者、豈(あに)鬱々として、この生を老賊の膝下に屈(かゞ)んで過さうや」
「おゝ、将軍。今の僭越な諫言をゆるして下さい。将軍はやはり稀世の英邁でいらつしやる。常々ひそかに、将軍の風姿を見てをるに、古(いにしへ)の韓信(カンシン)などより百倍も勝(すぐ)れた人物だと失礼ながら慕つてゐました。韓信だに、王に封ぜられたものを、何日(いつ)まで、区々たる相丞府(シヤウジヤウフ)の一旗下で居給ふわけはない……」
「ウーム、だが……」
呂布は牙を嚙んで呻(うめ)いた。
「——今となつて、悔いてゐるのは、老賊の甘口(うまくち)にのせられて、董卓と義父養子の約束をしてしまつたことだ。それさへなければ、今すぐにでも、事を挙げるのだが、かりそめにも、義理の養父と名のついてゐる為(ため)に、おれはこの憤(いきどほ)りを抑えてをるのだ」
「ほほう……。将軍はそんな非難を怖れてゐたんですか。世間は、些(ち)つとも知らない事ですのに」
「なぜ」
「でも、でも、将軍の姓は呂、老賊の姓は董でせう。聞けば、鳳儀亭で老賊は、あなたの戟(ほこ)を奪つて投げつけたといふぢやありませんか。父子の恩愛がない事は、それでも分ります。殊(こと)に、未だに、老賊が自分の姓を、あなたに名乗らせないのは、養父養子といふ名にあなたの武勇を縛つておくだけの考へしかないからです」
「あゝ、さうか。おれは何たる智恵の浅い男だらう」
「いや、老賊のため、義理に縛られてゐたからです。今、天下の憎む老賊を斬つて、漢室を扶け、万民へ善政を布(し)いたら、将軍の名は青史のうへに不朽の忠臣として遺(のこ)りませう」
「よしつ、おれはやる。必ず、老賊を馘(くびき)つてみせる」
呂布は、剣を抜いて、自分の肘(ひじ)を刺し、淋漓(りんり)たる血を示して、王允へ誓つた。
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次回 → 天颷(てんぺう)(三)(2024年5月3日(金)18時配信)