第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 絶纓(ぜつえい)の会(五)
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董太師、郿塢へ還る。——と聞えたので、長安の大道は、拝跪(ハイキ)する市民と、それを送る朝野(テウヤ)の貴人で埋まつてゐた。
呂布は、家に在つたが、
「はてな?」
窓を排して、街の空をながめてゐた。
「今日は、日も吉(よ)いから、貂蟬を送らうと、李儒は云つたが?」
車駕の轣音(レキオン)や馬蹄のひゞきが街に聞える、巷(ちまた)のうはさは噓とも思へない。
「おいつ、馬を出せつ、馬を」
呂布は、厩(うまや)へ馳け出して呶鳴つた。
飛びのるが早いか、武士も連れず、たゞ一人、長安の端(はづ)れまで鞭打つた。そこらはもう郊外に近かつたが、すでに太師の通過と聞えたので、菜園の媼(をうな)も、畑の百姓も、往来の物売や旅藝人など迄(まで)、すべて路傍に草の如く伏してゐた。
呂布は、丘のすそに、駒を停めて、大樹の陰にかくれて佇んでゐた。そのうちに車駕の列が蜿蜒(ヱンエン)と通つて行つた。
——見れば、金華の車蓋に、珠簾の揺れ鳴る一車が轢(きし)み通つて行く。四方翠紗(スヰシヤ)の籠屏(ロウベウ)の裡(うち)に、透(す)いて見える絵の如き人は貂蟬であつた。——貂蟬は、喪心(サウシン)しているものやうに、虚(うつろ)な容貌(かほ)をしてゐた。
ふと、彼女の眸は、丘のすそを見た。そこには、呂布が立つてゐた。——呂布は、われを忘れて、オヽと、馳け寄らんばかりな容子(ヨウス)だつた。
貂蟬は、顔を振つた。その頰に、涙が光つてゐるやうに見えた。——前後の兵馬は、畑土を馬蹄にあげて、忽(たちま)ち、その姿を彼方へ押しつゝんで去つてしまつた。
「…………」
呂布は、茫然と見送つてゐた。——李儒の言は、遂(つひ)に、偽りだつたと知つた。いや、李儒に偽りはないが、董卓が、頑として、貂蟬を離さないのだと思つた。
「……泣いてゐた、貂蟬も泣いてゐた。どんな気もちで郿塢の城へ赴(い)つたらう」
彼は、気が狂ひさうな気がしてゐた。沿道の百姓や物売や旅人などが、そのせゐか、じろ/\と彼を振向いてゆく。呂布の眼はたしかに血走つてゐた。
「や、将軍。……そんな所で、なにをぼんやりしてゐるんですか」
白い驢を降りて、彼のうしろからその肩を叩いた人がある。
呂布は、うつろな眼を、うしろへ向けたが、その人の顔を見て、初めてわれに回(かへ)つた。
「おう、あなたは王使徒ではないか」
王允は、微笑して、
「何故、そんな意外な顔をなされるのか。こゝはそれがしの別業(ベツサウ)の竹裡館(チクリクワン)のすぐ前ですのに」
「あゝ、さうでしたか」
「董太師が郿塢へお還りと聞いたので、門前に立つてお見送りしたついでに、一巡りしようかと驢を進めて来たところです。——将軍は、何しに?」
「王允、何しにとは情ない。其許(そこもと)がおれの苦悶を御存じないはずはないが」
「はて。その意味は」
「忘れはしまい。いつか貴公はこの呂布に、貂蟬を与へると約束したらう」
「元よりです」
「その貂蟬は老賊に横(よこ)奪(ど)りされた儘(まゝ)、今なほ呂布をこの苦悩に突き墜(おと)してゐるではないか」
「……その義ですか」
王允は、急に首を垂れて、病人のやうな嘆息をもらした。
「太師の所行はまるで禽獣(キンジウ)のなされ方です。わたくしの顔を見るたびに、近日、呂布の許へ貂蟬は送ると、口ぐせのやうに云はるゝが、今以(もつ)て、実行なさらない」
「言語道断だ。今も、貂蟬は、車のうちで泣いて行つた」
「ともかく、こゝでは路傍ですから……。さうだ、程近い私の別業までお越し下さい。篤(トク)と、御相談もありますから」
王允は、慰めて、白驢に乗つて先へ立つた。
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次回 → 天颷(てんぺう)(二)(2024年5月2日(木)18時配信)