第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 絶纓(ぜつえい)の会(四)
***************************************
【前回迄の梗概】
後漢の霊帝崩御後皇帝を擁立した董卓に対抗して起つた曹操、袁紹、孫堅等の聯合軍は董卓等を長安に追つたものゝ、内部の不統一のために目的を達せず、その中に孫堅は袁紹と事を構へ、揚子江に兵船を進めるがかへって敵に計られて戦死する。孫堅の子孫策は後日を期して退陣する。
董卓の天下を掌握せんとする野望は益々露骨である、其寵将呂布は大臣張温を宴中に殺戮して料理するといふ暴状を敢てする。同じく長安の一大臣王允は国を救ふために董卓と呂布との離反を計る。自家の楽女で子のやうに愛してゐる美女貂蟬は身を殺して王允を助けることになる。王允は呂布を招いて宴を開き、貂蟬の色香に魅了されると見るや貂蟬を与へんと約す。つゞいて王允は董卓を招き、貂蟬を董卓に贈る、董卓はこの美女のために今や何ものもなくなる。呂布は呂布で懊悩に日夜を送る。呂布は一度貂蟬を帳中に窺つて董卓の激怒を買ふが董卓の智恵囊たる李儒の諫めで呂布を許す、呂布は隙を覗つて後園に貂蟬と相会してゐるところを再び董卓に見付けられ、董卓狂乱して呂布を追ふが、又もや李儒が諫めて呂布を殺すことは自らを殺す所以を説かれて思ひとゞまる。王允、貂蟬の計畫は果して成るかどうか……
***************************************
李儒はかねて、呂布が何を不平として、近ごろ董卓に含んでゐるか、およそ察してゐたので、
——困つたものだ。
と、内心、貂蟬に溺れてゐる董卓にも、それに瞋恚(シンヰ)を燃やしてゐる呂布にも、胸を傷めてゐた折であつた。
それ故(ゆゑ)、「絶纓の会」の故事をひいて、諄々(ジユン/\)と、諫めたところ、さすが、董卓も暗愚ではないので、
「忘れおかう、呂布はゆるせ」
と、釈然と悟つた容子(ヨウス)なので、是(これ)、太師の賢明による所、覇業万歳の基であると、直に、呂布へもその由を告げて、大いに安心してゐた。
董卓は、李儒を退けると、すぐ後堂へ入つて行つたが、見ると、帳に縋(すが)つて、貂蟬はまだ独りしくしく泣いてゐた。
「何を泣くか。女にも隙(すき)があるから、男が戯れ懸るのだ。そなたにも半分の罪があるぞ」
董卓が、いつになく叱ると、貂蟬はいよ/\悲しんで、
「でも、太師は常に、呂布はわが子も同様だと仰つしやつていらつしやいませう。——ですから私も、太師の御養子と思つて、敬(うや)まつてゐたんです。それを今日は、恐い血相で、戟(ほこ)を持つて私を脅(おど)し、むりやりに鳳儀亭に連れて行つてあんな事をなさるんですもの……」
「いや、深く考へてみると、悪いのは、そなたでも呂布でもなかつた。この董卓が愚かだつた。——貂蟬、わしが媒(なかだ9ちして、そなたを呂布の妻にやらう。あれほど忘れ難(がた)なく恋してゐる呂布だ。そなたも彼を愛してやれ」
眼をとぢて、董卓がいふと、貂蟬は、身を投げて、その膝にとり縋(すが)つた。
「何を仰つしやいます。太師に捨てられて、あんな乱暴な奴僕(ヌボク)の妻になれといふんですか。嫌(いや)なことです。死んだつて、そんな辱しめは受けません」
いきなり董卓の剣を抜き執つて、咽(のど)に突き立てようとしたので、董卓は仰天して、彼女の手から剣を奪(と)りあげた。
貂蟬は、慟哭して、床に伏しまろびながら、
「……わ、わかりました。これはきつと、李儒が呂布に頼まれて、太師へそんな進言をしたにちがひありません。彼の人と呂布とは、いつも太師のいらつしやらない時といふと、密々(ひそ/\)話してゐますから。……さうです。太師はもう、私よりも、李儒や呂布の方がお可愛いゝんでせう。わたしなどはもう……」
董卓は、やにはに、彼女を膝に抱(いだ)きあげて、泣き濡れてゐるその頰やその唇へ、自分の顔をすり寄せて云つた。
「泣くな、泣くな、貂蟬、今のことばは、冗戯ぢやよ。何でそなたを、呂布になど与へるものか。——明日、郿塢(ビウ)の城へ帰らう。郿城には、三十年の兵糧と、数百万の兵が蓄へてある。事成れば、そなたを貴妃とし、事成らぬ時は、富貴の家の妻として、生涯を長く楽しまう。……嫌(いや)か、ウム、嫌ではあるまい」
次の日——
李儒は改まつて、董卓の前に伺候(シコウ)した。ゆうべ、呂布の私邸を訪(と)ひ、恩命を伝へたところ、呂布も、深く罪を悔いてをりました——と報告してから、
「けふは幸に、吉日ですから、貂蟬を呂布の家にお送りあつては如何(いかゞ)でせう。——彼は単純な感激家です。きつと、感涙をながして、太師の為(ため)には、死をも誓ふにちがひありません」
と、云つた。
すると董卓は、色を変じて、
「たはけた事を申せ。——李儒つ、そちは自分の妻を呂布にやるかつ」
李儒は、案に相違して、啞然(アゼン)としてしまつた。
董卓は早くも車駕を命じ、珠簾(シユレン)の宝臺(ハウダイ)に貂蟬を抱き乗せ、扈従(コジウ)の兵馬一万に前後を守らせ、郿塢の仙境をさして、瑤々(エウ/\)と発してしまつた。
***************************************
次回 → 天颷(てんぺう)(一)(2024年5月1日(水)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。