第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 絶纓(ぜつえい)の会(三)
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「なぜ悪いかつ。なぜ、不義者の成敗をするのが、よろしくないか」
董卓は、さう云ひ募つて、何(ど)うしても、呂布を斬れと命じたが、李儒は、
「不策です。いけません」
頑として、彼らしい理性を、変へなかつた。
「太師のお怒りは、自己のお怒りに過ぎませんが、てまへがお諫め申すのは、社稷(シヤシヨク)の為(ため)です。——昔、かういふ話があります」
と、李儒は、例をひいて、語り出した。
それは、楚(ソ)国の荘王(サウワウ)の事であるが、或る折、荘王が楚城のうちに、盛宴をひらいて、武功の諸将をねぎらつた。
すると——宴半(なかば)にして、遽(にはか)に涼風が渡つて、満座の燈火がみな消えた。
荘王、
(はや、燭(シヨク)をともせ)
と、近習へうながし、座中の諸将は、かへつて、
(これも涼しい)
と、興ありげに𤢖(さは)いでゐた。
——と、その中へ、特に、諸将をもてなす為(ため)に、酌に侍(はべ)らせておいた荘王の寵姫(チヨウキ)へ、誰か、武将のひとりが抱(いだ)きついて、その唇を盗んだ。
寵姫は、叫ばうとしたが、凝(じつ)と怺(こら)へて、その武将の冠の纓(おいかけ)をいきなり挘(むし)り奪(と)つて、荘王の側へ逃げて行つた。
そして、荘王の膝へ、泣き声をふるはせて、
「この中で今、誰やら、暗闇になつたのを幸(さいはひ)に、妾(わらは)へ猥(みだ)らに戯れた御家来があります。はやく燭を点(とも)して、その武将を縛(から)めてください。冠の纓の切れてゐる者が下手人です」
と、自分の貞操をも誇るやうな誇張を加へて訴へた。
すると荘王は、何(ど)う思つたか、
「待て待て」
と、今しも燭を点じようとする侍臣を、あわてゝ止め、
「今、わが寵姫が、つまらぬ事を余に訴へたが、こよひは元より心から諸将の武功を犒(ねぎら)ふつもりで、諸公の愉快は余の愉快とする所である。酒興の中では今のやうな事は有りがちだ。むしろ諸公が寛(くつろ)いで、今宵の宴をそれほど迄(まで)楽(たのし)んでくれたのが余も共に欣(うれ)しい」
と、云つて、偖(さて)又(また)、
「これからは、更に、無礼講として飲み明かさう。みんな冠の纓を取れ」
と、命じた。
そして総(すべ)ての人が、冠の纓を取つてから、燭を新(あらた)に灯(とも)させたので、寵姫の機智もむなしく、誰が、女の唇を盗んだ下手人か知れなかつた。
その後。荘王は、秦との大戦に、秦の大軍に囲まれ、すでに重囲のうちに討死と見えた時、ひとりの勇士が、乱軍を衝(つ)いて、王の側に馳けより、さながら降天の守護神のごとく、必死の働きをして敵を防ぎ、満身朱(あけ)になりながらも、荘王の身を負つて、遂に一方の血路をひらいて、王の一命を完(まつた)うした。
王は、彼の傷手(いたで)の甚しいのを見て、
「安んぜよ、もうわが一命は無事なるを得た。だが一体、そちは何者だ。そして如何なるわけでかくまで身に代へて、余を守護してくれたか」
と、訊(たづ)ねた。
すると、傷負(ておひ)の勇士は、
「——されば、それがしは先年、楚城の夜宴で、王の寵姫に冠の纓をもぎ取られた痴者(チシヤ)です」
と、〔にこ〕と笑つて答へながら死んだといふ。
——李儒は、さう話して、
「いふ迄(まで)もなく、彼は、荘王の大恩に報じたものです。世にはこの佳話を、絶纓(ゼツエイ)の会と伝へてゐます。……太師に於かれても、どうか、荘王の大度(タイド)を味はつてください」
董卓は、首を垂れて聞いてゐたが、やがて、
「いや、思ひ直した。呂布の命は助け置かう。もう怒らん」
翻然と、諫(いさめ)を容れて云つた。
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次回 → 絶纓(ぜつえい)の会(五)(2024年4月30日(火)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。また、4月29日が天長節(天皇誕生日)で祝日であったことに伴い、昭和15年(1540)4月30日(火)付の夕刊(4月29日配達)は休刊でした。このため、4月29日(月)の配信もありません。