第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 絶纓(ぜつえい)の会(二)
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「はて。貂蟬も見えないし。呂布もどこへ行き居つたか?」
董卓の眸は、猜疑(サイギ)に燃えてゐた。
今し方、彼は朝廷から退出した。呂布の赤兎馬は、いつもの所に繫(つな)いであるのに、呂布のすがたは見えなかつた。怪しみながら、車に乗つて相府へ帰つてみると、貂蟬の衣は、衣桁(イカウ)に懸つてゐるが、貂蟬のすがたは見当らないのである。
「さては」
と、彼は、侍女を糺(たゞ)して、男女の姿を見つけに、自身、後園の奥へ探しに来たのであつた。
鳳儀亭の曲欄(キヨクラン)に屈(かゞ)みこんで、呂布と相(あひ)擁(よう)しながら泣きぬれてゐた貂蟬は、ふと、董卓の姿が彼方に見えたので、
「あつ……来ました」
と、あわてゝ呂布の胸から飛び離れた。
呂布も、驚いて、
「しまつた。……どうしよう」
うろたへてゐる間に、董卓はもう走り寄つて来て、
「匹夫つ。白日も懼(おそ)れず、そんな所で、何してゐるかつ」
と、呶(ど)鳴(な)つた。
呂布は、物も言はず、鳳儀亭の朱橋を躍(をど)つて、岸へ走つた。——摺(す)れ交(か)ひに、董卓は、
「おのれ、どこへ行く」
と、彼の戟を引つ奪(た)くつた。
呂布が、その肘を打つたので、董卓は、奪つた戟を取り落してしまつた。彼は、肥満してゐるので、身を屈(かゞ)めて拾ひ取るのも、遅鈍であつた。——その間に、呂布はもう五十歩も先へ逃げてゐた。
「不埓(フラチ)者(もの)つ」
董卓は、その巨(おほ)きな体を前へ〔のめ〕らせながら、喚(わめ)いて云つた。
「待てツ。こらつ。待たぬかつ、匹夫め」
すると、彼方から馳けて来た李儒が、過(あや)まつて出(で)会(あひ)がしらに、董卓の胸を突きとばした。
董卓は、樽の如く、地へ転げながら、愈々(いよ/\)怒つて、
「李儒つ、そち迄(まで)が、余をさゝへて、不届きな匹夫を援(たす)けるかつ。—不義者をなぜ捕へん」
と、呶号した。
李儒は、急いで、彼の身を扶(たす)け起しながら、
「不義者とは、誰の事ですか。——今、てまへが後園に人声がするので、何事かと出てみると、呂布が、太師狂乱して、罪もなきそれがしを、お手討になさると追ひかけて参る故(ゆゑ)、何とぞ、助け賜はれとの事に、驚いて、馳けつけて来たわけですが」
「何を、ばかな。——董卓は狂乱などいたしてはをらん。余の目を偸(ぬす)んで、白昼、貂蟬に戯れてゐる所、余に見つけられたので、狼狽のあまり、そんな事を叫んで逃げ失(う)せたのだらう」
「道理で、いつになく、顔色も失つて、ひどく狼狽の態(テイ)でしたが」
「すぐ、引つ捕へて来い。呂布の首を刎(は)ねてくれる」
「ま。さうお怒りにならないで、太師にも少し落着いて下さい」
李儒は、彼の沓(くつ)を拾つて、彼の足もとへ揃へた。
そして、閣の書院へ伴ひ、座下に降つて、再拝しながら、
「たゞ今は、過ちとはいへ、太師のお体を突き倒し、罪、死に値します」
と、詫び入つた。
董卓は猶(なほ)、怒気の冷めぬ顔を、横に振つて、
「そんな事はどうでもよい。速(すみや)かに、呂布を召(めし)捕(と)つて来て、余に、呂布の首を見せい」
と云つた。
李儒は、飽(あく)まで冷静であつた。董卓が、怒るのを、恰(あたか)も痴児(チジ)囈言(たはごと)のやうに、苦笑のうちに聞き流して、
「恐れながら、それはよろしくありません。呂布の首を刎ねなさるのは、御自身の頸(うなじ)へ御自身で刃(やいば)を当てるにも等しい事です」
と、諫めた。
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次回 → 絶纓(ぜつえい)の会(四)(2024年4月27日(土)18時配信)