第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 絶纓(ぜつえい)の会(一)
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曲欄(キヨクラン)の下は、蓮池(はすいけ)だつた。
鳳儀亭へ渡る朱の橋に、貂蟬の姿が近づいて来た。花を分け柳を払つて現れた月宮の仙女かと怪しまれるほど、その粧(よそほ)ひは麗(うる)はしかつた。
「呂布さま」
「おう……」
ふたりは亭の壁の陰へ寄つて、無言のまゝ抱擁してゐた。呂布は、体ぢゆうの血を一瞬に燃やしてゐた。眩暈(めまひ)がするほど強烈な黒髪の香(か)につゝまれて、うつゝの身か、夢の身かと、今の幸福を疑つた。
「……おや、貂蟬、どうしたのだね」
「…………」
「ええ、貂蟬」
呂布は、彼女の肩をゆすぶつた。——彼の胸に顔を当てゝゐた貂蟬が、そのうちにさめ/゛\と泣き出したからであつた。
「わしとかうして会つたのを、其女(そなた)は欣(うれ)しいと思はないのか。いつたい、何をそんなに泣くのか」
「いゝえ、貂蟬は、欣しさの餘り、胸がこみあげてしまつたのです。……お聞きください。呂布さま。わたくしは王允様の真の子ではありません。さびしい孤児(みなしご)でした。けれど、わたしを真(まこと)の子のやうに可愛がつて下された王允様は、行末は必ず、凜々しい英傑の士を選んで嫁(かしづ)けてやるぞ——といつも仰つしやつて下さいました。それかあらぬか、将軍をお招きした夜、それとなく私と貴郎(あなた)とを会はせて賜はりましたから、私は、ひと度、貴郎(あなた)にお目にかゝると、これで平生の願ひもかなふかと、その夜から、夢にも見るほど、楽しんでをりました」
「ウむ。……ムヽ」
「ところが、その後、董太師のために、心に秘めてゐた想ひの花は、ふみにじられしまひました。太師の権力に、泣く/\心にそまぬ夜々を明かしました。もうこの身は、以前のきれいな身ではありません。……いかに心は前と変らず持つてゐても、汚(けが)された身を以(もつ)て、将軍の妻室に侍(かしづ)くことはできませんから、それを思ふと、恐ろしくて、口(く)惜(や)しくて……」
貂蟬は、四辺(あたり)へ聞えるばかり嗚咽(ヲエツ)して、彼の胸に、止め途(ど)なく悶(もだ)えて泣いてゐたが、突然、
「呂布さま。どうか貂蟬のこゝろ根だけは、不愍(フビン)なものと、忘れないでゐてください」
と、叫びざま、曲欄へ走り寄つて、蓮(はちす)の池へ身を投げようとした。
呂布は、びつくりして、
「何をする」
と、抱き止めた。
その手を、怖(おそろ)しい力で、貂蟬は振りのけようと争ひながら、
「いえ、いえ、死なせて下さい。生きてゐても、貴郎(あなた)と此世の御縁はないし、たゞ心は日(ひ)毎(ごと)苦しみ、身は不仁な太師の贄(にえ)になつて、夜夜、虐(さいな)まれるばかりです。せめて、後世(ゴセ)の契(ちぎり)を楽しみに、冥府(あのよ)へ行つて待つてをります」
「愚(おろか)なことを。来世を願ふよりも今生(コンジヤウ)に楽しまう。貂蟬、今にきつと、其女(そなた)の心に添ふやうにするから、死ぬなどゝ、短気なことは考へぬがいゝ」
「えつ……ほんとですか。今のおことばは、将軍の真実ですか」
「想ふ女を、今生に於て、妻ともなし得ないで、豈(あに)、世の英雄と呼ばれる資格があらうか」
「もし、呂布さま。それがほんとなら、どうか貂蟬の今の身を救うて下さいませ。一日も一年ほど長い気がいたします」
「時節を待て。それも長い事とはいはぬ。——又、今日は老賊に従つて、参殿の供につき、わづかな隙(すき)を窺(うかゞ)つてこゝへ来たのだから、もし老賊が退出してくると忽(たちま)ち露顕してしまふ。そのうちに、又よい首尾をして会はう」
「もう、お帰りですか」
貂蟬は、彼の袖をとらへて、離さなかつた。
「将軍は、世に並ぶ者なき英雄と聞いてゐましたのに、どうしてあんな老人をそんなに、怖れて、董卓の下風(カフウ)に従(つ)いてゐるのですか」
「さういふわけではないが」
「私は、太師の跫音8あしおと」を聞いても、ぞつと身が顫(ふる)へて来ます。……噫(あゝ)いつ迄(まで)も、かうしてゐたい」
猶(なほ)、寄り縋(すが)つて、紅涙雨の如き姿態(しな)であつた。——ところへ、董卓は朝(テウ)から帰つて来るなり、凡(たゞ)ならぬ血相を湛(たゝ)へて彼方から歩いて来た。
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次回 → 絶纓(ぜつえい)の会(三)(2024年4月26日(金)18時配信)
なお、昭和15年(1540)4月26日(金)付の夕刊(4月25日配達)連載は休載でした。このため、4月25日(木)の配信はありません。