吉川英治『三国志（新聞連載版）』（194） 絶纓（ぜつえい）の会（一）

昭和15年（1940）4月24日（水）付掲載（4月23日（火）配達）

第一回　→　黄巾賊（一）

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　その後、日を経て、董卓の病もすつかり快（よ）くなつた。

　彼は又、その肥大強健な体に驕るかのやうに、日夜貂蟬と遊楽して、帳裡（チヤウリ）の痴夢に飽く事を知らなかつた。

　呂布も、その後は、以前よりはやゝ無口にはなつたが、日々精勤して、相府の出仕は缺（か）かさなかつた。

　董卓が朝廷へ上る時は、呂布が赤兎馬に跨（また）がつて、必ずその衛軍の先頭に立ち、董卓が殿上にある時は、又必ず呂布が戟（ほこ）を持つて、その階下に立つてゐた。

　或る折。

　天子に政事（まつりごと）を奏する為（ため）、董卓が昇殿したので、呂布はいつものやうに戟を執つて、内門に立つてゐた。

　壮者の旺（さかん）な血ほど、気（け）懶（だる）い睡気（ねむけ）を覚えるやうな日である。呂布は、そここゝを飛び交（か）ふ蝶には、睡魔に襲はれ、眼をあげて、夏近い太陽に耀（かゞや）く木々の新翠（シンスヰ）や真紅の花を見ては、

「——貂蟬《ちようせん》は何をしてゐるか」

　と、煩悩に囚（とら）はれてゐた。

　ふと、彼は、

「けふは必ず董卓の退出は遅くならう。……さうだ、この間に」

　と、考へた。

　むら／＼と、思慕の炎に駆られ出すと、彼は矢も楯もなかつた。

　遽（にはか）に、何処（どこ）かへ、駆け出して行つたのである。

　董卓の留守の間に——と、呂布はひとり相府へ戻つて来たのだつた。そして勝手を知つた後堂へ忍んで行つたと思ふと、戟を片手に、

「貂蟬。——貂蟬」

　と、声を密（ひそ）めながら、寵姫の室へ入つて、帳（とばり）をのぞいた。

「誰？」

　貂蟬は、窓に倚（よ）つて、独り後園の昼を見入つてゐたが、振向いて、呂布のすがたを見ると、

「オヽ」

　と、馳け寄つて、彼の胸にすがりついた。

「まだ太師も朝廷からお退（さ）がりにならないのに、どうして貴郎（あなた）だけ帰つて来たのですか」

「貂蟬。わしは苦しい」

　呂布は、彼女の細い体が、折れてしまひはせぬかと思はれる程、強く抱きしめて呻（うめ）いた。

「この苦しい気もちが、其女（そなた）には分らないのだらうか。実は、けふこそ太師の退出が遅いらしいので、せめて束の間でもと、わし一人そつとこゝへ走り戻つて来たのだ」

「では……そんなに迄（まで）、この貂蟬を想つてゐて下さいましたか。……欣（うれ）しい」

　貂蟬は、身を顫（わなゝ）かせて、彼の火のやうな眸の下へ、唇を仰（あふ）向（む）けたが、はつと、物に脅（おび）えたやうに、

「こゝでは、人目にかゝつていけません。後から直ぐに参りますから、園のずつと奥の鳳儀亭（ホウギテイ）で待つてゐてください」

「きつと来るだらうな」

「なんで噓をいひませう」

「よし、では鳳儀亭に行つて、待つてゐるぞ」

　呂布はひらりと庭へ身を移してゐた。そして、木の間を走るかと思ふと、後園の奥まつた所にある一閣へ来て、貂蟬を待つてゐた。

　貂蟬は彼が去ると、いそいそと化粧を凝（こら）し、たゞ一人で忍びやかに、鳳儀亭の方へ忍んで行つた。

　柳は緑に、花は紅に、人無き秘園は、熟（う）れた春の香（にほ）ひに蒸れてゐた。

　貂蟬は、柳の絲（いと）のあひだから、そつと鳳儀亭のあたりを見まはした。

　呂布は、戟を立てゝ、そこの曲欄（キヨクラン）に佇（たゝず）んでゐた。

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次回　→　絶纓（ぜつえい）の会（二）（2024年4月24日（水）18時配信）