第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 痴蝶鏡(ちてふきやう)(三)
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呂布は、狼狽して
「いや、べつに……」
と、牀(シヤウ)の裾へ退(さが)りかけた。
「待てつ」
と、董卓は、病も忘れて、額に青すぢを立てた。
「今。おまへは、わしの眼を偸(ぬす)んで、貂蟬へ戯(たはむれ)ようとしたな。——わしの寵姫へ、猥(みだら)な事をしかけようとしたらう」
「そんな事はしません」
「ではなぜ、屏風の内へ這入(はい)らうとしたか。いつまで、そんな所に物欲しさうにまごついてゐるか」
「…………」
呂布は、いひ訳に窮して、真つ蒼な顔して俯(うつ)向(む)いた。
彼は、辯才の士ではない。又、機知なども持ち合せない人間である。それだけに、かう責めつけられると、進退窮(きは)まつたかの如く、惨澹(サンタン)たる唇を嚙むばかりだつた。
「不届き者めツ、恩寵を加へれば恩寵に狎(な)れて、身の程も辨(わきま)へずに何処(どこ)までもツケ上がり居る! 向後(カウゴ)は、余の室へ、一歩でも這入(はい)ると承知せぬぞ。いや、沙汰あるまで自邸で謹慎して居れ。——退らぬかつ。これ、誰かある、呂布を逐(お)ひ出せ」
と、董卓の怒りは甚しく、口を極めて罵つた。
どや/\と、室外に、武将や護衛の力者(リキシヤ)たちの跫音(あしおと)が馳け集まつた。——が、呂布は、その手を待たず
「もう、来ません!」
云ひ放つて、自分から颯(サツ)と、室の外へ出て行つた。
殆(ほとん)ど、入れ交(ちが)ひに
「何です? 何事が起つたのですか」
と、李儒が入つてきた。
まだ怒りの冷めない董卓は、火のやうな感情のまゝ、呂布が、この病室で、自分の寵姫に戯れようとした罪を、外道を憎むように唾して語つた。
「困りましたなあ」
李儒は冷静である。にが笑ひさへ泛(うか)べて聞いてゐたが
「なる程、不届きな呂布です。……けれど太師。天下へ君臨なさる大望のためには、さうした小人の、少しの罪は、笑つておゆるしになる寛度もなければなりません」
「ばかな」
董卓は、肯(がえん)じない。
「そんな事を宥(ゆる)しておいたら、士気は紊(みだ)れ、主従のあひだはどうなるか」
「でも今、呂布が変心して、他国へ奔(はし)つたら、大事はなりませぬぞ」
「…………」
董卓も、李儒に説かれてゐるうちに、やゝ激怒もをさまつて来た。ひとりの寵姫よりは、勿論、天下は大であつた。いかに貂蟬の愛に溺れてゐても、その野望は捨てきれなかつた。
「だが李儒。呂布のやつは、かへつて傲然と帰つてしまつたが、では、何(ど)うしたらよいか」
「さうお気づきになれば、御心配はありません。呂布は単純な男です。明日、お召しあつて、金銀を与へ、優しくお諭しあれば、単純だけに、感激して、向後は必ず慎むでせう」
李儒の忠言を容れて、彼はその翌日、呂布を呼びにやつた。
どんな問罪を受けるかと、覚悟して来て見ると、案に相違して、黄金十斤、錦二十匹を賜はつた上董卓の口から
「きのふは、病のせゐか、疳癖(カンヘキ)を起して、そちを罵つたが、わしは何者よりも、そちを力にしてをるのだ。悪く思はず、以前のとほり吾(わ)が左右を離れずに、日(ひ)毎(ごと)こゝへも顔を見せてくれい」
と、宥(なだ)められたので、呂布はかへつて心に苦しみを増した。併(しか)し主君の温言のてまへ、拝跪(ハイキ)して恩を謝し、黙々とその日は無口に退出した。
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次回 → 絶纓(ぜつえい)の会(一)(2024年4月23日(火)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。また、昭和15年(1540)4月23日(火)付の夕刊(4月22日配達)連載は休載でした。これに伴い、4月22日(月)の配信もありません。
今回までの執筆分が14冊単行本の第2巻「群星の巻」となります。次回からは第3巻「草莽の巻」に入ります。