第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 痴蝶鏡(ちてふきやう)(二)
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呂布の容子は、目立つて変つて来た。
相府(シヤウフ)への出仕も、休んだり遅く出たり、夜は酒に酔ひ、昼は狂躁に罵つたり、又、終日、茫然とふさぎ込んだ儘(まゝ)、口もきかない日もあつた。
「どうしたんですか」
妻が問へば
「うるさい」
としか云はない。
床を踏み鳴らして、檻(おり)の猛獣のやうに、部屋の中を独り廻(まは)つてゐる時など、頰を涙にぬらしてゐる事があつた。
さうかうする間に、一月餘りは過ぎて、悩ましい後園の春色も衰へ、浅翠(あさみどり)の樹々に、初夏の陽が、日ましに暑さを加へてきた。
「お勤めはともかく、この際、お見舞にも出ないでは、大恩のある太師へ叛(そむ)く者と、人からも疑はれませう」
彼の妻は頻(しき)りと諫めた。
近頃、董太師が、重いといふほどでもないが、病床にあるといふので、度々、出仕をすゝめるのだつた。
呂布もふと
「さうだ。出仕もせず、お見舞にも出なくては、申訳ない」
気を持ち直したらしく、久しぶりで相府へ出向いた。
そして、董卓の病床を見舞ふと、董卓は、元より、彼の武勇を愛して、殆(ほとん)ど養子のやうに思つてゐる呂布の事であるから、いつか、叱つて追ひ返したやうな事は、もう忘れてゐる顔で
「オヽ、呂布か、そちも近頃は、体が勝(すぐ)れないで休んでゐるといふ事ではないか。どんな容体だの」
と、かへつて病人から慰められた。
「大した事ではありません。すこしこの春は、大酒が過ぎたあんばいです」
呂布は、淋しく笑つた。
そしてふと、傍らにある貂蟬のはうを眼の隅から見(み)遣(や)ると、この半月の餘は、董卓の枕元について帯も裳(もすそ)も解かず、誠心から看護して、すこし面(おも)窶(やつ)れさへして見える容子なので——呂布は忽(たちま)ち、むらむらと嫉妬の火に全身の血を燃やされて
(初めは、心にもなくゆるした者へも、女はいつか、月日と共に、身も心も、その男に囚(とら)はれてしまふものか)
と、遣(や)る方なく、煩悶しだした。
董卓は、咳入つた。
その間に、呂布は、顔いろを覚られまいと、牀(シヤウ)の裾へ退いた。——そして董卓の背をなでてゐる貂蟬の真白な手を、物に憑(つ)かれた人間のやうに見つめてゐた。
すると、貂蟬は、董卓の耳へ、顔をすりよせて
「すこし静(しづか)に、おやすみ遊ばしては……」
と囁(さゝや)いて、衾(ふすま)を蔽(おほ)ひ、自分の胸をも、上から被(かぶ)せるやうにした。
呂布の眼は、焰になつてゐた。その全身は、石の如く、去るのを忘れてゐた。貂蟬は、病人の視線を隠すと、その姿を振向いて、片手で袖を持つて、眼を拭つた。……澘󠄁々(さめ/゛\)と、泣いてみせてゐるのである。
(……辛い。わたしは辛い。想つてゐる御方とは、語らふ事もできず、かうして、何日まで心にもない人と一室に暮らさなければならないのでせう。貴郎(あなた)は無情です。ちつとも此頃は、お姿を見せてくださらない!……せめて、お姿を見るだけでも、わたしは人知れず慰められてゐるものを)
元より声に出しては云へなかつたが、彼女の一滴々々の涙と、濡れた睫毛(まつげ)と、物云へぬ唇のわなゝきは、言葉以上に、惻々(ソク/\)と、呂布の胸へ、その思ひを語つてゐた。
「……では、では、其女(そなた)は」
呂布は、断腸の思ひの中にも、体中の血が狂喜するのを何(ど)うしやうもなかつた。盲目的に彼女のうしろへ寄つて行つた。そして、その白い頸(うなじ)を抱きすくめようとしたが、屏風の角に、剣の佩環(ハイクワン)が引つかゝつたので、思はず足を竦(すく)めてしまつた。
「呂布つ。何するか」
病床の董卓は、とたんに、大喝して身を擡(もた)げた。
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次回 → 痴蝶鏡(ちてふきやう)(四)(2024年4月20日(土)18時配信)