第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 痴蝶鏡(ちてふきやう)(一)
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呂布は、われを忘れて、臥房のすぐ扉口(とぐち)の外まで、近づいて行つた。
「オ…………。貂蟬」
彼は、泣きたいやうに胸を締めつけられた。七尺の偉丈夫も、魂を搔きむしられ、沈吟(チンギン)、去りもやらず、鏡の中に映る彼女のはうを偸(ぬす)み見してゐた。
そして、煮え沸(たぎ)る心の底で、
「貂蟬はもう昨夜かぎりで、処女(をとめ)ではなくなつてゐる!……。こゝの臥房には、まだ啜(すゝ)り泣きの声が残つてゐるやうだ。……ああ、董太師もひどい。貂蟬もまた貂蟬だ。……それとも王允がおれを欺いたのか。いや/\董太師に求められては、かよはい貂蟬はもう何(ど)うしようもなかつたらう」
彼の蒼白い顔は、何かの弾みに、ふと室内の鏡に映つた。
貂蟬は、
「あら?」
びつくりして振向いた。
「……」
呂布は、怨みがましい眼を凝(こら)して、彼女の顔をじつと睨んだ。——貂蟬は、とたんに、雨をふくんだ梨花(リクワ)のやうに顫(わなゝ)いて、
(——ゆるして下さい。わたくしの本心ではありません。胸をなでゝ……怺(こら)へて……。この辛(つら)いわたしの胸も分つて居て下さるでせう)
哀れを乞ふやうな、縋(すが)りついて泣きたいやうな、声なき思ひを、眼と姿態(しな)に云はせて呂布へ訴えた。
すると、壁の陰で、
「貂蟬。……誰かそれへ参つたのか」
と、董卓の声がした。
呂布は、恟(ぎよ)つとして、数歩跫音(あしおと)をしのばせて、室を離れ、そこから〔わざ〕と大股に、ずつと這入(はい)つて来て、
「呂布です。太師には、今お眼ざめですか」
と、常と変らない態(テイ)を装つて礼をした。
春宵の夢魂、まだ醒めやらぬ顔して、董卓は、その巨躯を、鴛鴦(エンオウ)の牀(シヤウ)に横たへてゐたので、唐突な彼の跫音にびつくりして身を起した。
「誰かと思へば、呂布か。……誰に断つて、臥房へ入つて来た」
「いや、今、お目ざめと、番将が知らしてくれたものですから」
「いつたい、何の急用か」
「は……」
呂布は、用向(ようむき)を問はれて口籠(ごも)つた。——臥房へまで来て命(メイ)を仰(あふ)ぐほどな用事は何もないのであつた。
「実は……かうです。夜来。何となく寝ぐるしいうちに、太師が病に罹(かゝ)られた夢を見たものですから、心配の餘り、夜が明けるのを待(まち)かねて、相府へ詰めてをりました。——が然(しか)し、お変りのない容子を見て、安心いたしました」
「何を云つてをるのか」
董卓は、彼の〔しどろもどろ〕な口吻(くちぶり)を怪しんで、舌打ちした。
「起ぬけから忌(いま)はしい事を訊(き)かせをる。そんな凶夢を、わざ/\耳に入れに来るやつがあるか」
「恐れ入りました。常々健康をお案じしてをるものですから」
「噓を云へ」
と、叱つて、
「そちの容子は、何となく怪訝(いぶか)しいぞ。その眼の暗さは何だ。その挙動のそは/\してゐる様(さま)は何だ。……去れつ」
「はつ」
呂布は、俯(うつ)向いた儘(まゝ)、一礼して悄然(セウゼン)と、影を消した。
その日、早めに邸(やしき)へ帰つて来ると、彼の妻は、良人(をつと)の顔色の冴えないのを憂ひて訊(き)いた。
「何か太師の御きげんを損ねたのではありませんか」
すると呂布は、大声で、
「うるさいつ。董太師が何だ。この呂布を圧(おさ)へる事は、太師でも出来るものか。貴さまは、出来ると思ふのか」
と、妻に当つて、呶(ど)鳴(な)りちらした。
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次回 → 痴蝶鏡(ちてふきやう)(三)(2024年4月19日(金)18時配信)