第一回 → 黄巾賊(一)
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春は、丈夫の胸にも、悩ましい血を沸かせる。
王允のことばを信じて、呂布はその夜、素直に邸(やしき)に帰つたものゝ何となく寝ぐるしくて、一晩中、熟睡できなかつた。
「——どうしてゐるだらう、貂蟬は今頃」
そんな事ばかり考へた。
董太師の館へ伴はれて行つたといふ貂蟬が、どんな一夜を明かしてゐるかと、妄想を逞(たくま)しうして、果(はて)は、牀(セウ)のうへに凝(じつ)としてゐられなくなつた。
呂布は、帳(とばり)を排して、窓外へ眼をやつた。そして彼女のゐる相府の空をぼんやり眺めてゐた。
鴻(コウ)が鳴き渡つてゆく。
朧月(おぼろづき)が更(ふ)けてゐる。——夜はまだ明けず、雲も地上も、どことなく薄明るかつた。庭前を見れば、海棠(カイダウ)は夜露をふくみ、茶縻(やまぶき)は夜靄にうな垂れてゐる。
「ああ」
彼は、独り呻(うめ)きながら、又、牀へ横たはつた。
「こんなに心のみだれるほど思ひ悩むのは、俺として生れてはじめてだ。——貂蟬、貂蟬、おまへはなぜ、あんな蠱惑(コワク)な眼をして、おれの心を囚(とら)へてしまつたのだ」
彼は夜明けを待ちかねた。
——が、朝となれば、彼は毅然たる武将だつた。邸にも多くの武士を飼つてゐる彼だ。朝陽を浴びて颯爽と、例の赤兎馬に乗つて、相丞府へ出仕した。
べつに、さう急用もなかつたのであるが、彼は早速、董卓の閣へ出向いて、
「太師はお目ざめですか」
と、護衛の番将に訊ねた。
番将は懶(ものう)げに、そこから後堂の秘園をふり向いて
「まだ帳を下ろしていらつしやるやうですな」
と、無感情な顔して云つた。
「ほ」
呂布は、何かむら/\と、不安に襲はれたが、わざと長閑(のどか)な陽を仰(あふ)いで云つた。
「もう午(うま)の刻にも近いのに、まだお寝(やす)みなのか」
「後堂の廊も、あの通り扉(と)ざしたまゝですから」
静かに、春園の禽は、昼を啼きぬいてゐた。
——寝殿は帳を垂れたまゝ寂として、陽の高きも知らぬものゝやうに見える。
呂布は蔽(おほ)ひ難い顔いろの裡(うち)からやゝ乱れた言葉で又訊ねた。
「太師には、昨夜、よほどお寝みが晩(おそ)かつたとみえますな」
「ええ、王允の邸へ、饗宴に招かれて、だいぶ御きげんでお帰りでしたからね」
「非常な美姫をお伴(つ)れになつたさうですな」
「や、将軍もそれを、もう御存じですか」
「ムム、王允の家の貂蟬といへば有名な美人だから」
「それですよ、太師のお目ざめが遅いわけは。昨夜、その美人を幸(さいはひ)いして、春宵の短きを嘆じていらつしやる事でせう。……何しても、けふはよい日和ですな」
「あちらで待つてゐるから、太師がお目ざめになつたら知らしてくれ」
呂布は、思はず、憤然と眉に色を出して、そこから立去つた。
相府の一閣で、彼はぼんやり腕拱(ぐ)みしてゐた。気にかゝるので、時折、池の彼方の閣を見まもつてゐた。後堂の寝殿は、真午(まひる)になつて、漸(やうや)く窓をひらいた様子であつた。
「太師には、たゞ今、お眼ざめになられました」
さつきの番将が告げに来た。
呂布は、取次も待たずに、董卓の後堂へ入つて行つた。そして、廊に佇(たゝず)みながら奥を窺(うかゞ)ふと、臥房(グワバウ)深き所、芙蓉の帳(とばり)まだ紊(みだ)れて、ゆうべ如何(いか)なる夢をむすんだか、鏡に向つて、臙脂(エンジ)を唇に施してゐる美姫のうしろ姿がちらと見えた。
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次回 → 痴蝶鏡(ちてふきやう)(二)(2024年4月18日(木)18時配信)