第一回 → 黄巾賊(一)
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王允は、心のうちで、しすましたりと思ひながら、貂蟬と董卓の車を相丞府(シヤウジヤウフ)まで送つて行つた。
「……では」
と、そこの門で、董卓に暇(いとま)を乞ふてゐると、ふと、氈車(センシヤ)の内から、貂蟬のひとみが、じつと、自分へ、無言の別れを告げてゐるのに気づいた。
「では、これにて」
王允は、もう一遍、繰返して云つた。それは貂蟬へ、それとなく返した言葉であつた。
貂蟬のひとみは、涙でいつぱいに見えた。王允も、胸がせまつて、長く居られなかつた。
あわてゝ彼は、わが家のほうへ引つ返して来た。すると、彼方の闇から、二列に松火の火を連ね、深夜を戞々(クワツ/\)と急いで来る騎馬の一隊がある。
近づいて来ると、その先頭には赤兎馬に踏み股(また)がつた呂布の姿が見えた。——はつと思ふまもなく、呂布は、王允の姿を見つけて、
「おのれ、今帰るか」
と、馬上から猿臂(エンピ)を伸ばして、王允の襟がみをつかみ大の眼(まなこ)をいからして、
「よくも汝は、先日、貂蟬をこの呂布に与へると約束しておきながら、こよひ董太師に供へてしまひ居つたな。憎いやつめ。おれを小児のやうに弄ぶか」
と、呶(ど)鳴(な)つた。
王允は、騒ぐ色もなく、
「どうして将軍は、そんな事をもう御存じなのか。まあ、待ち給へ」
と、宥(なだ)めた。
呂布は、なほ怒つて、
「今、わが邸へ、董太師が美女をのせて、相府へ帰られたと、告げて来た者があるのだ。そんな事が知れずにゐると思ふのか。この二股(ふたまた)膏薬(コウヤク)め。八ツ裂きにしてくるゝから覚えてをれよ」
と、従ふ武士にいひつけて、はや引つたてようとした。
王允は、手をあげて、
「逸(はや)まり給ふな将軍。あれほど固く約したこの王允を、何とて、お疑ひあるぞ」
「やあ、まだ吐(ぬ)かすか」
「ともあれ、もう一度邸(やしき)へお越しください。こゝではお話もし難(にく)いから」
「さう/\何度も、貴様の舌には欺(あざむ)かれぬぞ」
「その上で猶(なほ)、お合点がゆかなかつたら、即座に、王允の首をお持ち帰りください」
「よしつ、行つてやる」
呂布は彼に従(つ)いて行つた。
密室に通して、王允は、
「仔細はかうです」
と、言葉巧みに言つた。
「——実はこよひ、酒宴の果てた後で、董太師が興じて仰せられるには、そちは近頃、呂布へ貂蟬を与へる約束をした由だが、その女性を、ひとまづ余が手許(てもと)へあづけて置け。そして吉日を卜(ボク)して大いに自分が盛宴を設け、不意に、呂布と娶(めあ)はせて、やんやと、酒席の興にして、大いに笑ひ祝す趣向とするから。——と、かやうなお言葉なのでした」
「えつ。……では、董太師が、おれの艶福をからかふ心算(つもり)で、伴(つ)れておいでになつたのか」
「さうです。将軍のてれる顔を酒宴で見て、手を叩かうといふ、お考へだと仰つしやるのです。——で、折角の尊命をそむくわけにも参りませんから、貂蟬をおあづけした次第です」
「いや、それはどうも」
と、呂布は、頭を搔(か)いて、
「軽々しく、司徒を疑つて、何とも申しわけがない。こよひの罪は、万死に値するが、どうかゆるしてくれい」
「いや、お疑ひさへ解ければ、それでいゝ。必ず近日のうちに、将軍の艶福のために、盛宴が張られませう。貂蟬もさだめし待つてをりませう。いづれ彼女(あれ)の歌舞の衣裳、化粧道具など一切も、お手許(てもと)のはうへ送らせる事といたします」
呂布は、さう聞くと、三拝して、立帰つた。
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次回 → 痴蝶鏡(ちてふきやう)(一)(2024年4月17日(水)18時配信)