第一回 → 黄巾賊(一)
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客もなく、主もなく、又天下の何者もなく、貂蟬のひとみは、ただ舞ふことに、澄み耀(かゞや)いてゐた。
舞ふ——舞ふ——貂蟬は袖を翻(ひるが)へして舞ふ。教坊の奏曲は、彼女のために、絲竹(シチク)と管絃(クワンゲン)の技を凝(こら)し、人を酔はしめずにおかなかつた。
「ウーム。結構だつた」
董卓は、うめいてゐたが、一曲終ると、
「もう一曲」
と、望んだ。
貂蟬が再び起つと、教坊の楽手は、更に粋(スヰ)を競つて弾じ、彼女は、舞ひながら哀々と歌ひ出した。
紅牙(コウガ)催拍(サイハク)シテ燕ノ飛ブコト忙(セハ)シ
一片ノ紅雲(コウウン)画堂(グワドウ)ニ到ル
眉黛(ビタイ)促(モヨホ)シテ成ス遊子ノ恨(ウラミ)
臉容(レンヨウ)初メテ故人ノ腸(ハラワタ)ヲ断ツ
楡銭(ユセン)買ハズ千金ノ笑
柳帯(リウタイ)ナンゾ用(モチ)ヒン百宝ノ粧(ヨソホヒ)
舞(マヒ)罷(ヤ)ミ簾(レン)ヲ隔テヽ目送(モクソウ)スレバ
知ラズ誰カコレ楚(ソ)ノ襄王(ジヤウワウ)
眼を貂蟬のすがたにすゑ、歌詞に耳をすましてゐた董卓は、彼女の歌舞が終るなり、感極まつた容子(ヨウス)で、王允へ云つた。
「主(あるじ)。あの女性は、いつたい誰の女(むすめ)か。どうも、たゞの教坊の妓(をんな)でもなささうだが」
「お気に召(めし)ましたか。当家の楽女、貂蟬といふものですが」
「さうか。呼べ」
と、斜(なゝめ)ならぬ機嫌である。
「貂蟬、おいで」
王允は、さし招いた。
貂蟬は、それへ来て、たゞ羞恥(はぢら)つてゐた。董卓は、杯(さかづき)を与へて、
「幾歳(いくつ)か」
と、訊いた。
「…………」
答へない。
貂蟬は、小指を、唇のそばの黒子(ほくろ)に当てゝ、王允の陰に、俯(うつ)向いてしまつた。
「はゝゝ、恥かしいのか」
「たいへんな羞恥(はにか)み性(シヤウ)です。何しろめつたに人に接しませんから」
「美(い)い声だの。すがたも、舞もよいが。……主(あるじ)、もう一度、歌はせてくれないか」
「貂蟬、あのやうに、今夜の大賓が、求めてゐらつしやる。何ぞ、もう一曲……お聴きしていたゞくがよい」
「はい」
貂蟬は、素直にうなづいて、檀板(ダンバン)を手に——こんどはやゝ低い調子で——客のすぐ前に在つて歌つた。
一点ノ桜桃(アウタウ)絳唇(カウシン)ヲ啓(ヒラ)ク
両行(リヤウカウ)ノ砕玉(サイギヨク)陽春ヲ噴(ハ)ク
丁香(チヤウカウ)ノ舌ハ衠鋼(シユンカウ)ノ剣ヲ吐キ
姦邪乱国ノ臣ヲ斬ラント要ス
「いや、おもしろい」
董卓は、手をたゝいた。
前に歌つた歌詞は自分を讃美してゐたので、今の歌が自分をさして暗に姦邪乱国の臣としてゐるのも、気づかなかつた。
「神仙の仙女とは、実に、この貂蟬のやうなのを云ふのだらうな。いま、郿城にもあまた佳麗はゐるが、貂蟬のやうなのはゐない。もし貂蟬が一笑したら、長安の粉黛(フンタイ)はみな色を消すだらう」
「太師には、そんなに迄(まで)、貂蟬がお気に入りましたか」
「む……。余は、真の美人といふものを、今夜初めて見たこゝちがする」
「献じませう。貂蟬も、太師に愛していたゞければ、無上の幸せでありませうから」
「え。この美人を、余に賜はるといふのか」
「お帰りの車の内に入れてお連れください。——さういへば、夜も更けましたから、相府(シヤウフ)の御門前までお送りしませう」
「謝す。謝す。——王允司徒、ではこの美女は、氈車(センシヤ)に乗せて連れ帰るぞ」
董卓は、殆(ほとん)ど、その満足をあらはす言葉も知らないほど歓んで、貂蟬を擁して、車へ移つた。
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次回 → 傾国(五)(2024年4月16日(火)18時配信)