第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 傾国(二)
***************************************
聞くと、董卓は、
「なに、わしを貴邸へ招いてくれるといふのか。それは近頃、歓ばしい事である。卿(キヤウ)は国家の元老、特にこの董卓を招かるゝに、何で芳志に反(そむ)かう」
と、非常な喜色で、
「——ぜひ、明日行かう」
と、諾した。
「お待ちいたします」
王允は、家に帰ると、この由を、ひそかに貂蟬にさゝやき、又、家人にも、
「明日は巳(み)の刻に、董太師がお越しになる。一家の名誉だし、わし一代のお客だ。必ず粗相のないやうに」
と、督して、地には青砂をしき、床(シヤウ)には錦繡(キンシウ)を展(の)べ、正堂の内外には、帳(チヤウ)や幕を以(もつ)て繞(めぐ)らし、家宝の珍什(チンヂウ)を出して、饗応の善美を凝(こら)してゐた。
次の日。——やがて巳の刻に至ると、
「大賓の御車(みくるま)が見えました」
と、家僕が内へ報じる。
王允は、朝服を纏(まと)つて、すぐ門外へ出迎へた。
——見れば、太師董卓の車は、戟(ほこ)を持つた数百名の衛兵にかこまれ、行装の絢爛は、天子の儀仗もあざむくばかりで、車簾(シヤレン)を出ると、忽(たちま)ち、侍臣、秘書、幕側(バクソク)の力者(リキシヤ)などに、左右前後を護られて、佩環(ハイクワン)のひゞき玉沓(ギヨクタウ)の音、簇擁(ソクヨウ)して門内へ入つた。
「おうおいでを賜はりました。けふはわが王家の棟に、紫雲(シウン)の降りたやうな光栄を覚えまする」
王允は、董太師を、高坐に迎へて、最大の礼を尽した。
董卓も、全家の歓待に、大満足な容子で、
「主人は、わが傍らにあがるがよい」
と、席をゆるした。
やがて、嚠喨(リウレウ)たる奏楽と共に、盛宴の帳(とばり)は開かれた。酒泉を汲みあふ客たちの瑠璃(ルリ)杯(ハイ)に、薫々(クン/\)の夜虹(ヤコウ)は堂中の歓語笑声を貫いて、坐上はやうやく杯盤狼藉となり、楽人楽器を擁してあらはれ、騒客(サウカク)杯を挙げて歌舞し、眼も綾(あや)に耳も聾(ロウ)せんばかりであつた。
「太師、ちとこちらで、御少憩あそばしては」
王允は誘つた。
「ウム……」
と、董卓は、主にまかせて、護衛の者をみな宴に残し、たゞ一人、彼について行つた。
王允は、彼を、後堂に迎へて、家蔵の宝樽(ホウソン)を開け、夜光の杯に酌(つ)いで、献じながら静かに囁(さゝや)いた。
「こよひは、星の色までが、美しく見えます。これはわが家の秘蔵する長寿酒です。太師の寿を万代にと、初めて瓶をひらきました」
「やあ、ありがたう」
董卓は、飲んで、
「かう歓待されては、何を以て司徒の好意にむくいてよいか分らんな」
「私の願ふやうになれば私は満足です。——私は幼少から天文が好きで、いさゝか天文を学んでをりますが、毎夜、天象を見てをるのに、漢室の運気はすでに尽きて、天下は新(あらた)に起らうとしてゐます。太師の徳望は、今や巍々(ギヽ)たるものですから、古(いにしへ)の舜(シユン)が堯(ゲウ)を受けたやうに、禹(ウ)が舜の世を継いだやうに、太師がお立ちになれば、もう天下の人心は、自然、それに順(したが)ふだらうと思ひます」
「いや、いや。そんな事は、まだわしは考へてをらんよ」
「天下は一人のひとの天下ではありません。天下のひとの天下です。徳なきは徳あるに譲る。これは、わが朝(テウ)のしきたりです。世(よ)定まれば、誰も叛逆とはいひません」
「はゝゝゝゝ。もし董卓に天運が恵まれたら、司徒、おん身も重く用ひてやるぞ」
「時節をお待ちします」
王允は再拝した。
とたんに、堂中の燭は一遍に灯(とも)つて、白日のやうになつた。そして正面の簾(すだれ)が捲(ま)かれると、教坊の楽女たちが美音をそろへて歌ひ出し、絲竹(シチク)管絃(クワンゲン)の妙(たへ)な音(ね)にあはせて、楽女貂蟬が、袖をひるがへして舞つてゐた。
***************************************
次回 → 傾国(四)(2024年4月15日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。