第一回 → 黄巾賊(一)
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「貂蟬。——お待ち」
王允は、彼女を呼びとめて、客の呂布(ロフ)と等分に眺めながら云つた。
「こちらにいらつしやる呂将軍は、わしが日頃、敬愛するお方だし、わが一家の恩人でもある。——おゆるしをうけて、そのまゝお側にをるがよい。充分に、おもてなしをなさい」
「……はい」
貂蟬は、素直に、客のそばに侍した。——けれど、俯(うつ)向いてばかりゐて、何も云はなかつた。
呂布は、初めて、口を開いて、
「御主人。この麗人は、当家の御息女ですか」
「さうです。女(むすめ)の貂蟬といふものです」
「知らなかつた。大官のお女(むすめ)に、こんな美しいお方があらうとは」
「まだ、まつたく世間を知りませんし、また、家の客へも、滅多に出た事もありませんから」
「そんなお深窓のお女(むすめ)を、けふは呂布のために」
「一家の者が、こんなに迄(まで)、あなたの御来訪を、歓んでゐるといふ事を、お酌み下されば倖(しあは)せです」
「いや、御歓待は、充分にうけた。もう、酒もさうは飲めない。大官、呂布は酔ひましたよ」
「まだよろしいでせう。貂蟬、おすゝめしないか」
貂蟬は、程よく、彼に杯をすゝめ、呂布もだん/\酔眼になつて来た。夜も更けたので、呂布は、帰るといつて立ちかけたが、猶(なほ)、貂蟬の美しさを、繰返して称(たた)へた。
王允は、そつと、彼の肩へ寄つて囁(さゝや)いた。
「おのぞみならば、貂蟬を将軍へさしあげてもよいが」
「えつ。お娘を。……大官、それはほんとですか」
「何で偽りを」
「もし、貂蟬を、この呂布へ賜ふならば、呂布は御一家のために、犬馬の労を誓ふでせう」
「近い内に、吉日を選んで、将軍の室へ送ることを約します。……貂蟬も、今夜の容子では、たいへん将軍が好きになつてゐるやうですから」
「大官。……呂布は、すつかり酩酊しました。もう、歩けない気がします」
「いや、今夜こゝへお泊めしてもよいが、董太師に知れて、怪しまれてはいけません。吉日を計つて、必ず、貂蟬はあなたの室へ送るから、今夜はお帰りなさい」
「間違ひはないでせうな」
呂布は、恩を拝謝し、又、何度も諄(くど)いほど、念を押して漸(やうや)く帰つた。
王允は、後で、
「……噫(あゝ)、これで一方は、まづうまく行つた。貂蟬、何事も、天下のためと思つて、眼をつぶつてやつてくれよ」
と、彼女へ云つた。
貂蟬は、悲しげに、併(しか)しもう観念しきつた冷たい顔を、横に振つて、
「そんなに、いち/\私を宥(いたは)らないで下さい。おやさしく云はれると、かへつて心が弱くなつて、涙脆くなりますから」
「もう云ふまい。……ぢやあかねて話してある通り、又近いうちに、董卓を邸(やしき)へ招くから、おまへは妍(ケン)を凝(こら)して、その日には歌舞(カブ)吹弾(スヰダン)もし、董卓の機嫌もとつてくれよ」
「ええ」
貂蟬は、うなづいた。
次の日、彼は、朝に出仕して、呂布の見えない隙を窺(うかゞ)ひ、そつと董卓の閣へ行つて、まづその坐下に拝跪(ハイキ)した。
「毎日の御政務、太師にもさぞおつかれと存じます。郿城(ビジヤウ)へお還りある日は、満城を挙げて、お慰みを捧げませうが、又時には、茅屋(バウオク)の粗宴も、お気が変つて、かへつてお慰みになるかと思はれます。——そんなつもりで実は、小館にいさゝか酒宴の支度を設けました。もし駕(ガ)を枉(ま)げていたゞければ、一家のよろこび是(これ)にすぎたるものはありませんが」
と、彼の遊意を誘つた。
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次回 → 傾国(三)(2024年4月13日(土)18時配信)