第一回 → 黄巾賊(一)
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王允は、一家を挙げて、彼の為(ため)にもてなした。
善美の饗膳(キヤウゼン)を前に、呂布は、手に玉杯をあげながら主人へ云つた。
「自分は、董太師に仕へる一将にすぎない。あなたは朝廷の大臣で、しかも名望ある家の主人だ。一体、何でこんなに鄭重になさるのか」
「これは異なお訊(たづ)ねぢや」
王允は、酒をすゝめながら、
「将軍を饗するのは、その官爵を敬ふのではありません。わしは日頃からひそかに、将軍の才徳と、武勇を尊敬してをるので、その人間を愛するからです」
「いや、これはどうも」
と、呂布は、機嫌のよい顔に、そろ/\微紅を呈して、
「自分のやうな〔がさつ〕者を、大官がそんなに愛してゐて下さらうとは思はなかつた。身の面目といふものだ」
「いや/\、計らずも、お訪ねを給はつて、名馬赤兎を、わが邸(やしき)の門に繫(つな)いだだけでも、王允一家の面目といふものです」
「大官、それ程までに、この呂布を愛し給ふなら、他日、天子に奏して、それがしをもつと高い職と官位にすゝめて下さい」
「仰せ迄(まで)もありません。が、この王允は、董太師を徳とし、董太師の徳は生涯忘れまいと、常に誓つてをる者です。将軍もどうか、愈々(いよいよ)太師のため、自重して下さい」
「いふまでもない」
「そのうちに、自ら栄爵に見舞はれる日もありませう。——これ、将軍へ、お杯をおすゝめしないか」
彼は、ことばを更(か)へて、室内に連環して立つてゐる給仕の侍女たちへ、さう云つた。
そして、その中の一名を、眼で招いて、
「めつたにお越しのない将軍のお訪ね下すつた事だ。貂蟬にもこれへ来て、ちよつと、御あいさつをするがよいと云へ」
と、小声でいひつけた。
「はい」
侍女は、退(さ)がつて行つた。間もなく、室の外に、楚々(ソソ)たる気はいがして、侍立の女子が、帳を揚げた。客の呂布は、杯をおいて、誰が這(は)入(い)つて来るかと、眸(ひとみ)を向けていた。
丫鬟(アクワン)の侍女(こしもと)ふたりに左右から扶けられて、歩々、牡丹の大輪が、微(かす)かな風をも怖がるやうに、それへ這入つて来た麗人がある。
楽女貂蟬であつた。
「……いらつしやいませ」
貂蟬は、客のはうへ、わづかに眼を向けて、優(しとや)かにあいさつした。雲鬢(ウンピン)重たげに、呂布の眼を羞恥(はぢ)らひながら、王允の蔭へ、隠れてしまひたさうに摺(す)り寄つてゐる。
「…………?」
呂布は、恍惚とながめてゐた。
王允は、自分の前の杯を、貂蟬にもたせて云つた。
「おまへの名誉にもなる。将軍へ杯をさしあげて、おながれを戴(いたゞ)くがよい」
貂蟬は、うなづいて、呂布のまへへ進みかけたが、ちらと、彼の視線に会ふと、眼もとに、眩(まばゆ)げな紅(くれなゐ)をたゝへ、遠くからそつと、真白な繊手(センシユ)へ、翡翠(ヒスイ)の杯をのせて、聞きとれない程な小声で云つた。
「……どうぞ」
「や。これは」
呂布は、われに返つたやうに、その杯を持つた。——何たる可憐!
貂蟬は、すぐ退(さが)つて、帳の外へ隠れかけた。呂布はまだ、手の杯を、唇(くち)にもしない。——彼女がそのまゝ去るのを残り惜しげに、眼も離たずにゐた。酒を干す遑(いとま)すらない眼であつた。
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次回 → 傾国(二)(2024年4月12日(金)18時配信)