第一回 → 黄巾賊(一)
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貂蟬は、𤢖(さは)ぐ色もなく、すぐ答へた。
「はい。大人のおたのみなら、いつでもこの生命は捧げます」
王允は、坐を正して、
「では、おまへの真心を見込んで頼みたいことがあるが」
「何ですか」
「董卓を殺さねばならん」
「…………」
「彼を除かなければ、漢室の天子はあつても無いのと同じだ」
「…………」
「百姓万民の塗炭の苦しみも永劫に救はれはしない……貂蟬」
「はい」
「おまへも薄々は、今の朝廷の累卵の危ふさや、諸民の怨嗟は、聞いてもゐるだらう」
「えゝ」
貂蟬は、目瞬きもせず、彼の吐き出す熱い言々を聞き入つてゐた。
「——が、董卓を殺さうとして、効を奏した者は、けふ迄(まで)、一人としてない。かへつて皆、彼のために殺し尽されてゐるのだ」
「…………」
「要心ぶかい。十重(とへ)二十重(はたへ)の警固がゆき届いてゐる。又、あらゆる密偵が網の目のやうに光つてゐる。しかも、智謀無類の李儒が側にゐるし、武勇無双の呂布が守つてゐる」
「…………」
「それを殺さんには……。天下の精兵を以てしても足らない。……貂蟬。たゞ、おまへのその腕(かひな)のみが成し得る」
「……どうして、私に?」
「まづ、おまへの身を、呂布に与へると欺いて、わざと、董卓のはうへおまへを贈る」
「…………」
さすがに、貂蟬の顔は、さう聞くと、梨の花みたいに蒼白く冴えた。
「わしの見る所では、呂布も董卓も、共に色に溺れ酒に耽る荒淫の性(たち)だ。——おまへを見て心を動かさないはずはない。呂布の上に董卓あり、董卓の側に呂布のついてゐるうちは、到底、彼等を亡(ほろぼ)すことは難しい。まづさうして、二人を裂き、二人を争はせることが、彼等を滅亡へひき入れる第一の策だが……貂蟬、おまへはその体を犠牲(いけにへ)にさゝげてくれるか」
貂蟬は、ちよつと、俯向いた。珠のやうな涙が床(ゆか)に落ちた。——が、やがて面を上げると、
「いたします」
きつぱり云つた。
そして又、
「もし、仕損じたら、わたしは、笑つて白刃の中に死にます。世々ふたゝび人間の身をうけては生れて来ません」
と、覚悟のほどを示した。
数日の後。
王允は、秘蔵の黄金冠を、七宝を以て飾らせ、音物(インモツ)として、使者に持たせ、呂布の私邸へ贈り届けた。
呂布は、驚喜した。
「あの家には、古来から名剣宝珠が多く伝はつてゐるとは聞いたが、洛陽から遷都して来た後も、まだこんな佳品があつたのか」
彼は、武勇絶倫だが、単純な男である。歓びの餘り、例の赤兎馬に乗つて、さつそく王允の家へやつてきた。
王允は、あらかじめ、彼が必ず答礼に来ることを察してゐたので、歓待の準備に手ぬかりはなかつた。
「おう、これは珍客、ようこそお出でくだされた」
と、自身、中門まで出迎へて、下へも置かぬもてなしを示し、堂上に請じて、呂布を敬ひ拝した。
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次回 → 傾国(一)(2024年4月11日(木)18時配信)