第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 牡丹亭(二)
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楽女とは、高官の邸(やしき)に飼はれて、賓客のある毎(ごと)に、宴に侍(はべ)つて、歌舞(カブ)吹弾(スヰダン)する賤女(センヂヨ)をいふ。
けれど、王允と、貂蟬とは、その愛情に於ては、主従といふよりも、養父と養女といふよりも、猶(なほ)、濃いものであつた。
「貂蟬、風邪をひくといけないぞよ。……さ、おだまり、涙をお拭き。おまへも妙齢(としごろ)となつたから、月を見ても花を見ても、泣きたくなるものとみえる。おまへ位な妙齢は、羨ましいものだなあ」
「……何を仰つしやいます。そんな浮いた心で、貂蟬は悲しんでゐるのではございません」
「では、何で泣いてゐたのか」
「大人(タイジン)がお可哀さうでならないから……つい泣いてしまつたのです」
「わしが可哀さうで……?」
「ほんとにお可哀さうだと思ひます」
「おまへに……おまへのやうな女子(をなご)にも、それが分るか」
「分らないでどうしませう……。そのお窶(やつ)れやう。お髪(ぐし)も……めつきり白くなつて」
「むむう」
王允も、ほろりと、涙をながした。——泣くのを宥(なだ)めてゐた彼のはうが、滂沱(バウダ)として、止まらない涙に当惑した。
「何をいふ。そ……そんな事はないよ。おまへの取(とり)こし苦労ぢやよ」
「いゝえ、おかくしなさいますな。嬰児(あかご)の時から、大人のお家に養はれてきた私です。この頃の朝夕の御様子、いつも笑つたことのないお顔……。そして時折、ふかい嘆息を遊ばします。……もし」
貂蟬は、彼の老いたる手に、瞼(まぶた)を押しあてゝ云つた。
「賤(いや)しい楽女のわたくし、お疑ひ遊ばすのも当り前でございますが、どうか、お胸の悩みを、打明けて下さいまし。……いゝえ、それでは、逆(さか)しまでした。大人のお胸を訊く前に、わたくしの本心から申さねばなりません。——私は常々、大人のご恩を忘れたことはないのです。十八の年まで、実(まこと)の親も及ばないほど愛して下さいました。歌吹(カスヰ)音楽の他、人なみの学問から女の諸藝、学び得ない事も何一つありませんでした。——みんな、あなた様のお情に鏤(ちりば)められた身の宝です。……これを、この御恩を、どうしてお酬(むく)いしたらよいか、貂蟬は、この唇(くち)や涙だけでは、それを申すにも足りません」
「…………」
「大人。……仰つしやつて下さいませ。おそらく、あなたのお胸は、国家の大事を悩んでゐらつしやるのでございませう。今の長安の有様を、憂ひ患(わづ)らつてお在(い)でなのでございませう」
「貂蟬」
急に涙を払つて、王允は思はず、痛いほど彼女の手をにぎりしめた。
「うれしい!貂蟬、よく云つてくれた。……それだけでも、王允はうれしい」
「私のこんな言葉だけで、大人の深いお悩みは、どうして除(と)れませう。——と云うて、男の身ならぬ貂蟬では、何のお役にも立ちますまいし……。もし私が男であるならば、あなた様のために、生命(いのち)を捨てゝお酬いする事もできませうに」
「いや、できる!」
王允は、思はず、満身の声で云つてしまつた。
杖を以て、大地を打ち、
「——ああ、知らなんだ。誰か又知らう。花園(はなぞの)裡(うち)に、回天の名珠を鏤(ちりば)めた誅悪(チウアク)の利剣が潜んでゐようとは」
かう云ふと、王允は、彼女の手を取らんばかりに誘つて、画閣の一室へ伴ひ、堂中に坐らせて、その姿へ頓首再拝した。
貂蟬は、驚いて、
「大人。何をなさいますか、勿体ない」
あわてゝ降(くだ)らうとすると、王允は、その裳(もすそ)を抑へて云つた。
「貂蟬。おまへに礼を施したのではない。漢の天下を救つてくれる天人(テンジン)を拝したのだ。……貂蟬よ、世のために、おまへは生命をすててくれるか」
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次回 → 牡丹亭(四)(2024年4月10日(水)18時配信)