第一回 → 黄巾賊(一)
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「おい。ちよつと起て」
呂布の腕が伸びた。
酒宴の上席のはうにゐた大臣張温(チヤウウン)の髻(もとどり)を、いきなりひツ摑んだのである。
「あツ、な何を」
張温の席が鳴つた。
満座、色醒めて、どうなる事かと見てゐるまに、
「やかましい」
呂布は、その怪力で、鳩でも摑むやうに、無雑作に、彼の身を堂の外へ持つて行つてしまつた。
暫(しばら)くすると、一人の料理人が、大きな盤に、異様な料理を捧げて来て、真ん中の卓においた。
見ると、盤に盛つてある物は、たつた今、呂布に摑み出されて行つた張温の首だつたので、朝廷の諸臣は、みな顫(ふる)へあがつてしまつた。
董卓は、笑ひながら、
「呂布はいかゞした」
と呼んだ。
呂布は、悠々、後から姿をあらはして、彼の側に侍立した。
「御用は」
「いや、そちの料理が、少し新鮮すぎたので、諸卿みな杯を休めてしまつた。安心して飲めとお前から云つてやれ」
呂布は満座の蒼白い顔に向つて、傲然と、演説した。
「諸公。もう今日の餘興はすみました。杯をお挙げなさい。おそらく張温の他に、それがしの料理を煩(わづらは)すやうなお方はこの中にはをらんでせう。——居らない筈と信じる」
彼が、結ぶと、董卓も亦(また)、その肥満した体軀を、ゆらりと上げて云つた。
「張温を誅したのは、故(ゆゑ)なき事ではない。彼は、余に叛(そむ)いて、南陽の袁術と、ひそかに通謀したからだ。天罰といはうか、袁術の使(つかひ)が密書を持つて、過つて呂布の家へそれを届けて来たのぢや。——で、彼の三族も、今し方、残らず刑に処し終つた。汝等朝臣も、このよい実例を、確(しか)と見ておくがよい」
宴は、早目に終つた。
さすが長夜の宴も猶(なほ)足らないとする百官も、この日は皆、匆々(サウ/\)に立ち戻り、一人として、酔つた顔も見えなかつた。
中でも司徒王允は、わが家へ帰る車のうちでも、董卓の悪行や、朝廟の紊(みだ)れを、つく/゛\思ひ沁(し)めて、
「あゝ。……噫(あゝ)」
嘆息(ためいき)ばかり洩らしてゐた。
館に帰つても、憤念の痞(つか)へと、不快な懊悩は去らなかつた。
折ふし、宵月が出たので、彼は気を革(あらた)めようと、杖を曳(ひ)いて、後園を歩いてみたが、猶(なほ)、胸のつかへが除れないので、茶縻(やまぶき)の花の乱れ咲いてゐる池畔へかゞみこんで、けふの酒をみな吐いてしまつた。
そして、冷たい額に手をあてながら、暫く月を仰ぎ、瞑目してゐると、どこからか春雨の咽(むせ)ぶがやうな啜(すゝ)り泣きの声がふと聞えた。
「……誰か?」
王允は見まはした。
池の彼方に、水へ臨んでゐる牡丹亭(ボタンテイ)がある。月は廂(ひさし)に映じ窓には微(かす)かな灯が揺れてゐる。
「貂蟬(テウセン)ではないか。……何をひとりで泣いてゐるのだ」
近づいて、彼は、そつと声をかけた。
貂蟬は、芳紀(とし)十八、その天性の麗はしさは、この後園の芙蓉の花でも、桃李の色香でも、彼女の美には競へなかつた。
まだ母の乳も恋しい幼い頃から、彼女は生みの親を知らなかつた。襁褓(むつき)の籠と共に、市に売られてゐたのである。王允は、その幼少に求めてわが家に養ひ、珠を研(みが)くやうに諸藝を仕込んで楽女(ガクヂヨ)とした。
薄命な貂蟬はよくその恩を知つてゐた。王允もわが子のごとく愛してゐるが、彼女も聡明で、よく情に感じる性質であつた。
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次回 → 牡丹亭(三)(2024年4月9日(火)18時配信)