第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 溯江(ソコウ)(四)
***************************************
黎明と共に、出陣の鼓は鳴つた。長沙の大兵は、城門から江岸へあふれ、軍船五百餘艘、舳艫(ジクロ)をそろへて揚子江へ出た。
孫堅は、長男の孫策が、すでに夜の明けないうち、十艘ばかり兵船を率ゐて、先駆けしたと聞いて、「頼もしいやつ」
と、口には大いにその健気さを賞したが、心には初陣の愛児の身に万一の不慮を案じて、
「孫策を討たすな」
と、急ぎに急いで、敵の鄧城(トウジヤウ)(河南省・鄧県)へ向つた。
劉表の第一線は、黄祖を大将として、沿岸に防禦の堅陣を布(し)いてゐた。
孫策は、父の本軍より先に来て、わづかな兵船をもつて、一気に攻めかゝつてゐたが、陸上から一斉に射立てられて、近づくことさへできなかつた。
その間に、味方の五百餘艘が、父孫堅の龍首船をまん中にして、江上に船陣を布き、
「孫策、逸(はや)まるな」
と、小舟をとばして伝令して来たので、孫策もうしろへ退(ひ)いて、父の船陣の内へ加はつた。
孫堅は、充分に備へ立て、各船の舳(みよし)に楯と射手をならべ、弩弓(ドキウ)の弦(つる)を満々と懸けて、
「いざ、進め」
と、白浪(しらなみ)をあげながら江岸へ迫つた。
そして、射かける間に、各親船から小舟を降ろし、戟(ほこ)、剣の精鋭を陸へ押しあげて、一気に沿岸の防禦を突破しようといふ気勢であつた。
然(しか)し。敵もさるものである。
防禦陣の大将黄祖は、かねて手具脛(てぐすね)ひいて待つてゐた所であるから、
「怨敵ござんなれ」
と、鳴りをしづめたまゝ、兵船の近づくまで、一矢も放たなかつた。
そして、充分、機を計つて、
「よしつ」
と、黄祖が、一令を発すると、陸上に組んである多くの櫓(やぐら)や、又、何町といふ間、布き列(つら)ねてある楯や土塁の陰から、いちどに飛箭(ヒセン)の暴風を浴びせかけた。
両軍の射(い)交(かは)す矢うなりに、陸地と江上のあひだは矢の往来で暗くなつた。黄濁(クワウダク)な揚子江の水は岸に激して凄愴な飛沫(しぶき)をあげ、幾度かそこへ、小舟の精兵が群れをなして上陸しようとしたが、皆ばた/\と射殺されて、死体は忽ち、濁流の果(はて)へ、芥(あくた)のやうに消えて行つた。
「退(ひ)けや、退けや」
孫堅は、戦不利と見て、忽ち船陣を矢のとゞかぬ距離まで退いてしまつた。
彼は、作戦を変へた。
夜に入つてからである。更に、附近の漁船まで狩り出して、それに無数の小舟を列ね、赤々と、篝火(かゞりび)を焚かせて、あたかも夜襲を強行するやうにみせた。
江上は、真つ暗なので、その火ばかりが物凄く見えた。陸上の敵は、
「すはこそ」
と、昼にもまして、弩弓や火箭(ひや)を射るかぎり射て来た。
然しそれには、兵は乗つてゐなかつたのである。舟を操る水夫(かこ)だけであつた。孫堅の命令で、水夫は、敵に徒(いたづ)らな矢数を費(つか)ひさせるため、暗澹たる江上の闇で、たゞ、わあわあつと、声ばかりあげてゐた。
夜が明けると、小舟も漁船も、敵に正体を見られぬうちに、四散してしまつた。そして、夜になると又、同じ策を繰返した。
かうして七日七夜も、毎夜、空船(からぶね)の篝(かゞり)で敵を欺き、敵がつかれ果てた頃、一夜、こんどはほんとに強兵を満載して、大挙、陸上へ馳けのぼり、黄祖の軍勢をさん/゛\に追ひ乱した。
***************************************
次回 → 溯江(そこう)(六)(2024年3月30日(土)18時配信)