第一回 → 黄巾賊(一)
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玄徳も豫(かね)てから、趙子龍の人物には、傾倒してゐたので、彼に今、別離の情を訴へられると、
「せつかく陣中でよい友を得たと思つたのに、忽(たちま)ち、平原へ帰ることになり、何やら自分もお別れしたうない心地がする」と、云つた。
子龍は、沈んだ顔をして、
「実は、それがしは、御存じの如く、袁紹の旗下(キカ)にゐた者ですが、袁紹が洛陽以来の仕方を見るに、不徳な行為が多いので、翻(ひるがへ)つて、公孫瓚こそは、民を安める英君ならんと、身を寄せた次第です。——ところが、その公孫瓚も、長安の董卓から仲裁の使(つかひ)をうけると、忽ち、袁紹と和解して、小功に甘んじるやうでは、その器も程の知れたもので、到底、天下の窮民を救ふ英雄とも思はれません。まづまづ、袁紹とちやうどよい対手(あひて)といつてよいでせう」
かう嘆いてから、彼は、玄徳に向つて、自分の本心を訴へた。
「劉大兄。お願ひです。それがしを平原へお伴ひ下さい。貴郎(あなた)こそ、将来、為(な)す有る大器なりと、見込んでのお願ひです。……どうぞ、それがしを家臣として行末(ゆくすゑ)までも」
子龍は、床にひざまづいて、真実を面(おもて)に、哀願した。
玄徳は、瞑目して、考へこんでいたが、
「いや、私はそんな大才ではありません。けれど、将来に於て、又再会の御縁があつたら、親しく今日の誼(よしみ)を又温めませう。——今は時機でありません。私の去つた後は、猶(なほ)の事、どうか公孫瓚を助けて上げて下さい。時来るまで、公孫瓚の側にゐて下さい。それが、玄徳からお願ひ申すところです」
諭されて、子龍もぜひなく、
「では、時を得ませう」
と、涙ながら後に留まつた。
翌日。
玄徳は、張飛、関羽などの率ゐる一軍の先に立つて、平原へ帰つた。——即(すなは)ち、その時から彼は平原の相として、漸(やうや)く、一地方の相たる印綬を帯びたのだつた。
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こゝに、南陽の太守で、袁術といふ者がある。
袁紹の弟である。
曽(か)つては、兄袁紹の旗下(キカ)にあつて、兵糧方を支配してゐた男だ。
南陽へ帰つてからも、兄からは何の恩祿をくれる様子もないので、
「怪(け)しからぬ」
と、不平でいつぱいだつた。
彼は、書面を送つて、
「先頃からの賞として、冀北(キホク)の名馬千匹を賜はりたい。くれなければ考へがある」
と兄へ申入れた。
袁紹は、弟の強請(ゆすり)がましい恩賞の要求に、腹を立てたが、一匹の馬も送つてよこさないばかりか、それに就(つい)ての返辞も与へなかつた。
袁術は大いに怨んで、それ以来、兄弟不和となつてゐたが、兵馬の資財はすべて兄の方から仰いでゐたので、忽(たちま)ち、経済的に苦しくなつて来た。
で、荊州の劉表へ使(つかひ)をやつて、兵糧米二万斛(ゴク)の借用を申しこむと、劉表からも態(テイ)よく断られてしまつた。
「こいつも兄の指金(さしがね)だな」
袁術は、憤怒を発して、たうとう自暴自棄の兆(テウ)をあらはした。
彼の密使は、暗夜ひそかに、呉へ渡つて、呉の孫堅へ一書を送つた。
文面は、かうであつた。
異日、印を奪はん為、洛陽の帰途を截(た)ち、公を苦しめたるものは袁紹が謀事(はかりごと)なり。
今又、劉表と議し、江東を襲つて、公の地を掠(かす)めんと企(くわだ)つ。言ふに忍びず、唯(たゞ)、公は速(すみやか)に兵を興して荊州を取れ。われも亦(また)兵を以て助けん。公荊州を得、われ冀州を取らば、二讐(ニシウ)一時(イチジ)に報ずるなり。誤ち給(たま)ふ勿(なか)れ。
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次回 → 溯江(そこう)(三)(2024年3月27日(水)18時配信)