第一回 → 黄巾賊(一)
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遷都以後、日を経(ふ)るに従つて、長安の都は、追々(おひ/\)に王城街の繁華を呈し、秩序も大いに革(あらた)まつて来た。
董卓の豪勢なることは、ここへ遷(うつ)つてからも、相変らずだつた。
彼は、天子を擁して、天子の後見をもつて任じ、位は諸大臣の上にあつた。自ら太政相国(ダジヤウシヤウコク)と称し、宮門の出入には、金花の車蓋に万珠の簾(レン)を垂れこめ、轣音(レキオン)揺々(エウ/\)と、行装の綺羅と勢威を内外に誇り示した。
或る日。
彼の秘書官たる李儒が、彼に告げた。
「相国」
「なんぢや」
「先頃から、袁紹と公孫瓚とが、盤河を挟んで戦つてゐますが」
「ム。さうらしいな。どんな形勢だ」
「袁紹のはうが、やゝ負け色で、盤河からだいぶ退(ひ)いたやうですが、猶(なほ)、両軍とも対陣のまゝ、一ケ月の餘も過してをります」
「やるがいゝ、両軍とも、わしに叛(そむ)いたやつだ」
「いや、こゝ久しく、朝廷に於(お)かれても、遷都後の内政に忙しく、天下の事は抛擲(ハウテキ)した形になつてゐますが、それでは、帝室の御威光を遍(あまね)からしめるわけにゆきません」
「何か、策があるのか」
「相国から奏上して、天子の詔をうけ、勅使を盤河へ遣はして、休戦をすゝめ、両者を和睦させるべきかと存じます」
「成程」
「両方とも、夥(おびたゞ)しい痛手をうけて、戦ひ疲れてゐる折ですから、和睦の勅使を下せば、欣(よろこ)んで承知するでせう。——そしてその恩徳は、自然、相国へ対して、帰服することゝなつて来ませう」
「大きに尤(もつと)もだ」
董卓は、早速、帝に奏して、詔を奏請し、太傅(タイフ)馬日磾(バジツセン)、趙岐(テウキ)のふたりを勅使として関東へ下した。
勅使馬太傳は、まづ袁紹の陣へ行つて、旨を伝へ、それから公孫瓚の所へ行つて、董相国の和解仲裁の意を齎(もたら)した。
「袁紹さへ異存なくば」
と、一方がいへば、一方も
「彼が兵を退(ひ)くならば」
との云ひ分で、両方とも、渡りに舟とばかり、勅命に従つた。
そこで馬太傳は、盤河橋畔(ケウハン)の一亭に、両軍の大将をよんで、手を握らせ、杯を交(かは)し合つて、都へ帰つた。
袁紹も、公孫瓚も、同日に兵馬をまとめて、各々帰国したが、その後、公孫瓚は、長安へ感謝の表を上せて、そのついでに、劉備玄徳を、平原の相(シヤウ)に封じられたいといふ願ひを上奏した。
朝廷のゆるしは間もなく届いた。公孫瓚は、それを以て
「貴下に示す自分の微志である」
と、玄徳に酬(むく)いた。
玄徳は、恩を謝して、平原へ立つことになつたが、その送別の宴が開かれて、散会した後、ひそかに、彼の宿舎を訪れて来た者がある。趙雲子龍であつた。
子龍は、玄徳の顔を見ると
「もう、今宵かぎり、お別れですなあ」
と、いかにも名残り惜(をし)げに、眼に涙すらたゝへて云つた。
そして、いつ迄(まで)も、話しこんで帰らうともしなかつたが、やがて思ひ断(た)つたやうに、子龍は云ひ出した。
「劉兄。——明日御出発のみぎりに、それがしも共に平原へ連れて行つてくれませんか。かう申しては押つけがましいが、私は、貴郎(あなた)とお別れするに忍びない。——それほど心中に深くお慕ひ申してゐるわけです」
と鬼をあざむく英傑が、処女の如く、さし俯(うつ)向(む)いて云ふのであつた。
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次回 → 溯江(そこう)(二)(2024年3月26日(火)18時配信)