第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 白馬将軍(三)
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「やあ、なか/\偉観だな」
対岸にある袁紹は、河ごしに、小手をかざして、敵の布陣をながめながら云つた。
「顔良。文醜」
「はつ」
「ふたりは、左右ふた手にわかれて、両翼の備へをなせ。又、屈強の射手(いて)千餘騎に、麹義(キクギ)を大将として、射陣を布け」
「心得ました」
命じておいて、袁紹は旗下一千餘騎、弩弓手(ドキウシユ)五百、槍戟(サウゲキ)の歩兵八百餘に、幡(ハン)、流旗(リウキ)、大旆(タイハイ)など、まんまるになつて中軍を固めた。
大河をはさんで、戦機は漸(やうや)く熟して来る。東岸の公孫瓚は、敵のうごきを見て、部下の大将厳綱(ゲンカウ)を先手とし、帥(スヰ)の字を金線で繡(ぬ)つた紅の旗をたて、
「いでや」
と、ばかり河畔へひた/\と寄りつめた。
公孫瓚は、きのふ自分の一命を救つてくれた趙雲子龍を非凡な人傑とは思つてゐたが、まだその心根を充分に信用しきれないので、厳綱を先手とし、子龍にはわづか兵五百をあづけて、後陣の方へまはしておいた。
両軍対陣のまゝ、辰(たつ)の刻から巳(み)の刻の頃ほひまで、たゞひた/\と河波の音を聞くばかりで、戦端はひらかれなかつた。
公孫瓚は、味方を顧みて、
「果しもない懸引(かけひき)、思ふに、敵の備へは虚勢とみえる。一息に射(い)潰(つぶ)して、盤河橋をふみ渡れ」
と、号令した。
忽ち、飛箭(ヒセン)は、敵の陣へ降りそそいだ。
時分はよしと、東岸の兵は、厳綱を真つ先にして、橋をこえ、敵の先陣、麹義の備へゝどつと当つて行つた。
鳴りをしづめてゐた麹義は、合図の〔のろし〕を打揚げて、顔良、文醜の両翼と力をあはせ、忽ち、彼を包囲して大将厳綱を斬つて落し、その「帥」の字の旗を奪つて、河中へ投げこんでしまつた。
公孫瓚は、焦心(いら)だつて、
「退(ひ)くなつ」
と、自身、白馬を躍らして、防ぎ戦つたが、麹義の猛勢に当るべくもなかつた。のみならず、顔良、文醜の二将が
「あれこそ、公孫瓚」
と目をつけて、厳綱と同じやうに、ふくろづゝみに巻いて来たので、公孫瓚は、歯がみをしながら、又も、崩れ立つ味方に交(まじ)つて逃げ退(の)いた。
「戦は、勝つたぞ」
と、袁紹は、すつかり得意になつて、顔良、文醜、麹義などの奔突(ホントツ)してゆく後から、自身も、盤河橋をこえて、敵軍の中を荒しまはつてゐた。
散々なのは、公孫瓚の軍だつた。一陣破れ、二陣潰(つひ)え、中軍は四走し、まつたく支離滅裂にふみにじられてしまつたが、こゝに不可思議な一備へが、後詰にあつて、林のごとく、動かず騒がず、森(しん)としてゐた。
その兵は、約五百ばかりで、主将はきのふ身を寄せたばかりの客将、趙雲子龍その人であつた。
何の気もなく、
「あれ踏みつぶせ」
と、麹義は、手兵をひいて、その陣へ懸(かか)つたところ、突如、五百の兵は、恰(あたか)も蓮花の開くやうに、颯(さつ)と、陣形を展(ひろ)げたかと見るまに、掌(て)に物を握るごとく、敵をつつんで、八方から射浴びせ突き殺し、あわてゝ駒を返さうとする麹義を見かけるなり、趙子龍は、白馬を飛ばして、馬上から一気に彼を槍で突き殺した。
白馬の毛は、紅梅の落花を浴びたやうに染まつた。きのふ公孫瓚から、当座の礼としてもらつた駿足である。
子龍は、なほも進んで敵の文醜、顔良の二軍へぶつかつて行つた。遽(にはか)に、対岸へ退(ひ)かうとしても、盤河橋の一筋しか退路はないので、河に墜ちて死ぬ兵は数知れなかつた。
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次回 → 白馬将軍(五)(2024年3月22日(金)18時配信)
掲載紙である『中外商業新報』は、昭和15年(1940)3月22日付夕刊(3月21日配達)が休刊でした。これに伴い、明日3月21日(木)の配信はありません。