第一回 → 黄巾賊(一)
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さて、其(その)後(ご)。
——焦土の洛陽に止(とゞ)まるも是非なしと、諸侯の兵も、続々本国へ帰つた。
袁紹も、兵馬をまとめて一時、河内郡(河南省懐寧)へ移つたが、大兵を擁してゐる事とて、立ち所に、兵糧に窮してしまつた。
「兵の給食も、極力、節約を計つてゐますが、この分でゆくと、今に乱暴を始め出して、民家へ掠奪(リヤクダツ)に奔(はし)るかもしれません。さすれば将軍の兵馬は、忽ち土匪(ドヒ)と変じます。昨日の義軍の総帥も亦(また)、土匪の頭目と人民から見られてしまふでせう」
兵糧方の部将は、それを憂ひて幾たびも、袁紹へ、対策を促した。
袁紹も、今は、見得を張つてゐられなくなつたので、
「では、冀州の太守韓馥(カンフク)に、事情を告げて、兵糧の資(もと)を借りにやらう」
と、書状を書きかけた。
すると、逢紀(ハウキ)という侍大将のひとりが、そつと、進言した。
「大鵬(タイハウ)は天地に縦横すべしです。なんで区々(クヽ)たる窮策を告げて、人の資(たすけ)になどお恃(たの)みになるのでござるか」
「逢紀か。いや、他に策があれば、何も韓馥などに借米はしたくないが何か、汝に名案があるのか」
「ありますとも。冀州(河北省・津浦線)は富饒(フゼウ)の地で、粮米(ラウマイ)といはず金銀五穀の豊富な地です。よろしく、この国土を奪取して、将来の地盤となさるべきではありますまいか」
「それは元より望むところだが、どういふ計(はかりごと)を以(もつ)てこれを奪(と)るか」
「ひそかに北平(北京)の太守公孫瓚へ使(つかひ)を派し、冀州を攻(う)つて、これを割(わ)け奪(ど)りにしようではないか。——さう云つてやるのです」
「むム」
「必ずや、公孫瓚も食指をうごかすでせう。さう来たら、将軍は又、一方韓馥へも内通して、力とならんと云つておやりなさい。臆病者の韓馥は、きつと将軍にすがります。——その後の仕事は、掌(たなごゝろ)に有りというものでせう」
袁紹は歓んで直(たゞち)に、逢紀の献策を、実行に移した。
冀州の牧(ボク)、韓馥は、袁紹から書面を受けて、何事かと披(ひら)いてみると、
(北平の公孫瓚、ひそかに大兵を催し、貴国に攻入らんとしてをる。兵備、怠り給(たま)ふな)
といふ忠言だつた。
勿論、その袁紹が、一方では公孫瓚を使唆(シソウ)してゐるなどゝは知らないので、韓馥は大いに驚いて、群臣と共に、どうしたものかと、評議にかけた。
「この忠言をしてくれた袁紹は、先に十八ケ国の軍に臨んで総帥たる人。又、智勇衆望も高い名門の人物。よろしくこの人にお力を頼んで、慇懃(インギン)、冀州へお迎へあるがしかるべきでございませう。——袁紹お味方と聞えなば、公孫瓚たりと雖(いへど)も、よも手出しはできますまい」
群臣の重なる者は、みなその意見だつた。
韓馥も、亦(また)、
「それよからん」
と、同意した。
ひとり長史(チヤウシ)耿武(カウブ)は、憤然と、その非をあげて諫めた。
けれど、彼の直言は、用いられなかつた。評定は紛論に堕(おち)入(い)り、耿武の力説を正しとして、席を蹴つて去る者三十人に及んだ。
耿武も遂に、用ひられない事を知つて、
「やんぬる哉(かな)!」
と、即日、官をすてゝ姿をかくした。
けれど、彼は忠烈な士であつたから、みす/\主家の亡ぶのを見るに忍びず、日を待つて、袁紹が冀州へ迎へられる機会を窺(うかゞ)つてゐた。
袁紹はやがて、韓馥の迎へによつて、堂々と、国内の街道へ兵馬を進めて来た。——忠臣耿武は、その日を、剣を握つて、道の辺の木陰に待ちかまへてゐた。
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次回 → 白馬将軍(二)(2024年3月18日(月)18時配信)
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