第一回 → 黄巾賊(一)
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玉璽を掌にしたまゝ孫堅は、茫然と、程普の物語る由来に聞き恍(と)れてゐた。
そして密(ひそか)に、思ふらく、
(どうして、こんな名宝が、おれの掌に授かつたのだらうか?)
何か恐ろしい気持さへした。
程普は、語りつゞけて。
「——今、思ひ合せれば、先年、十常侍等の乱を醸した折、幼帝には北邙山(ホクバウザン)へお遁(のが)れ遊ばしましたが、その頃、遽(にはか)に玉璽が紛失したといふ噂が一時立ちました。——今、その玉璽が計らずも、井泉(セイセン)の底より拾ひ上げられて、太守のお掌に授かるといふのは、凡事ではありません」
「ウーム、自分もさう思ふ。……まつたくこれは凡事(たゞごと)ではない」
孫堅も呻いた。
程普は、主君の耳へ口をよせて、
「——天が授けたのです。天が、あなた様をして、九五(キウゴ)の御位(みくらゐ)にのぼせ、子孫に亘(わた)つて、伝国の大統を指命せられた祥瑞(シヤウズヰ)と思はれます。……はやく本国へお帰りあつて、遠大の計をめぐらすべきではありませんか」
と、囁(さゝや)いた。
孫堅は、大きく頷いて、
「さうだ」
と、深く期すものゝやうに、眼を耀(かゞや)かして、居合せた郎党たちへ云ひ渡した。
「こよひの事は、断じて、他言は相成らぬぞ。もし他へ洩らした者あらば、必ず首を刎ねるからさう心得よ」
やがて、夜も更けて。
孫堅は、自分の陣へこつそり帰つて寝たが、程普は味方の者へ、
「御主君には、急病を発しられた故(ゆゑ)、明日、陣を払つて、急に本国へお帰りになることになつた」
と、虚病を触れて、その夜から遽(にはか)に行旅の支度にかゝらせた。
ところが、
その混雑中に、孫堅に従(つ)いてゐた郎党のひとりが、袁紹の陣へ行つて、内通した。一部始終を袁紹に告げて、わづかな褒美をもらつて姿を晦(くら)ましてゐた。
だから袁紹は、あらかじめ玉璽の秘密を知つてゐた。
夜が明けると、孫堅は、何喰はぬ顔して、暇乞ひにやつて来た。孫堅はわざと、憔悴した態(テイ)を装つて、
「どうも近頃、健康がすぐれないので、陣中の務めも懶(ものう)くてならんのです。甚だ急ですが、暫(しばら)く本国へ帰つて静養したいと思ひます。——当分は風月を友にして」
云いかけると、袁紹は、
「あはゝゝゝ」
と、横を向いて笑つた。
孫堅はむつとして、
「何で総帥には、それがしが真面目に別辞を述べてゐるのに、無礼な笑ひ方をなさるのか」
と、剣に手をかけて詰問(なじ)つた。
袁紹は、露骨に、
「君は、仮病もうまいが、怒る真似も上手か。いや裏表の多い人物だ。——君の静養といふのは、伝国の玉璽をふところに温めて、やがて鳳凰の雛でも孵(かへ)さうといふ肚(はら)だらう」
「な、なにつ?」
「慌てんでもよい。こら孫堅、身のほどを知れよ。建章殿の井のうちから、昨夜、拾ひあげた物をこれへ出せ」
「そんなことは知らん」
「不届きな!汝、天下を奪ふ気か」
「知らん。何をもつて、此(この)方(ハウ)を謀叛(ムホン)人といふか」
「だまれ。国々の諸侯が、義兵をあげて、この艱苦を共にしてゐるのは、漢の天下を扶けて、社稷(シヤシヨク)を泰(やす)んぜんが為(ため)だ。玉璽は、朝廷に返上すべきもので、匹夫の私(わたくし)すべきものではない」
「何を、ばかなつ」
「ばかなとは、何事だ」
袁紹も、彼に対して、あはや剣を抜かうとした。
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次回 → 珠(たま)(四)(2024年3月14日(木)18時配信)