第一回 → 黄巾賊(一)
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いや、そればかりではない。
死美人の屍(かばね)には、もつと麗はしい物が添つてゐた。それは襟(えり)頸(くび)にかけて抱いてゐる紫金襴(シキンラン)の嚢(ふくろ)だつた。
蠟(ラフ)より真白い指が、慥乎(しつか)とそれを抱いてゐる。——死んでも離すまいとする死者の一念が見えた。
孫堅は、側へ寄つて、近々と死体をながめてゐたが、
「何だらう。はて、この嚢を取り上げてみろ」
郎党に命じて身を退(の)いた。
彼の従者は、すぐ死美人の頸からそれを外し取つて、孫堅の手へ捧げた。
「おい、炬火(たいまつ)を出せ」
「はつ」
従者は、彼の左右から、炬火を翳(かざ)した。
「……?」
孫堅の眼は、何か、非常な驚きに耀(かゞや)きだしてゐた。紫金襴の嚢には、金糸銀糸で瑞鳳(ズヰホウ)彩雲(サイウン)の刺繍(ぬひ)がしてあつた。打紐(うちひも)を解いてみると、中から朱い匣(はこ)があらはれた。その朱さと云つたらない。おそらく珊瑚朱(サンゴシユ)か堆朱(ツヰシユ)の類(たぐひ)であらう。
可愛らしい黄金の錠がついてゐる。鍵は見当らない。孫堅は、歯で咬(か)んでそれを捻(ね)ぢ切つた。
中から出てきたのは、一(イツ)顆(クワ)の印章であつた。溶(とろ)けるやうな名石で方円(ハウヱン)四寸ばかり、石の上部には五龍を彫り、下部の角のすこし缺(か)けた箇所には、黄金の繕ひが施してある。
「おい、程普を呼んで来い。——大急ぎで、密かに」
孫堅は、あわてゝ云つた。
そして猶(なほ)も、
「はてな?——これは尋常な印顆(インクワ)ではないが」
と、掌中の名石を、恍惚として凝視してゐた。
程普が来た。
息をきつて、使(つかひ)の者と共に、ここへ近づいて来るなり、
「何ぞ御用ですか」
と、訊ねた。
孫堅は、印顆を示して、
「程普。これを何だと思ふ?」
と、鑑識させた。
程普は、学識のある者だつた。手に取つて、一見するなり驚倒せんばかり驚いた。
「太守。あなたはこれを一体、どうなされたのですか」
「いや、今こゝを通りかゝると井戸の内から妖(あや)しい光を放つので、調べさせてみたところ、この美人の死体が揚つて来た。それはこの死美人が頸にかけてゐた錦の嚢から出てきた物だ」
「あゝ勿体ない——」
と、程普は自分の掌に礼拝して、
「——これは伝国の玉璽(ギヨクジ)です。紛れもなく、朝廷の玉璽でございます」
「えつ、玉璽だと」
「ごらんなさい。篤(とく)と——」
程普は、炬火のそばへ、玉璽を持つて行つて、それに彫つてある篆字(テンジ)の印文を読んで聞かせた。
受命于天(めいをてんにうく)
既寿永昌(キジユエイシヤウ)
「……と御坐いませうが」
「むゝ」
「これはむかし荊山(ケイザン)の下で、鳳凰が石に棲むのを見て、時の人が、石の心部を切つて、楚(ソ)国の文王に献じ、文王は、稀世の璞玉(あらたま)なりと、宝としてゐましたが、後、秦の始皇の二十六年に、良工を選んで研(みが)かせ、方円四寸の玉璽に作りあげ、李斯(リシ)に命じて、この八字を彫らせたものであります」
「ウーム……。成程」
「二十八年始皇帝が洞庭湖(ドウテイコ)をお渡りの折、暴風のために、一時この玉璽も、湖底に沈んだ事などもありましたが、ふしぎにもこの玉璽を持つ者は、一身つゝがなく栄え、玉璽もいつか世に現れて、累世朝廷の奥に伝国の宝として、漢の高祖より今日まで、伝へ/\て参つた物ですが……どうしてこれが今日の兵火に無事を得たでせうか。思へば、実に奇瑞(キズヰ)の多い玉璽ではあります」
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次回 → 珠(たま)(三)(2024年3月13日(水)18時配信)