第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 生死一川(セイシイツセン)(三)
***************************************
丘から射放つ矢は集まつて来る。
止(とゞ)まるも死、進むも死だつた。
一難、又一難。死は飽(あく)まで曹操を捉へなければ止まないかに見えた。
「この上は、敵の屍を山と積み、曹家の兄弟が最期として、人に笑はれぬ死に方をして見せませう。兄上も、お覚悟ください」
曹洪も、遂(つひ)に決心した。
そして兄曹操と共に、駒を捨てるや否や、剣をふりかざして、敵の中へ斬りこんだ。
敵は、𤢖(さは)いで、
「やあ、曹家と云つたぞ。さては曹操、曹洪の兄弟と見えたり」
「思ひがけない大将首、あれを獲(と)らずにあるべきや」
餓狼が餌を争ふやうに二人を蔽(おほ)ひつゝんだ。
すると。
彼方の野末から、一陣の黄風を揚げて、これへ馳けて来る十騎ほどの武士があつた。
ゆうべから主君曹操の行方をさがし歩いてゐた夏侯惇、夏侯淵の二将と旗下(はたもと)たちだつた。
「おうつ、ご主君これにか」
十槍の穂先を揃へて、どつと横から突き崩して来た。
「いざ、疾(と)く」
と曹兄弟に、駒をすゝめ、夏侯惇はまつ先に、
「それつ、落ちろつ」
と気を揃へて逃げ出した。
矢は急霰(キフサン)のやうに追つたが、徐英軍は遂(つひ)に追ひきれなかつた。曹操たちは、一叢の蒼林を見て、ほつと息をついた。見ると五百ばかりの兵馬がそこにゐる。
「敵か、味方か?」
物見させてみると、僥倖にも、それは曹操の家臣、曹仁、李典、楽進たちであつた。
「おゝ、君には、御無事でおいで遊ばしたか」
と、楽進、曹仁等は、主君のすがたを迎へると、天地を拝して歓び合つた。
戦は、実に惨憺たる敗北だつたが、その悲境の中に、彼等は、最も大きな歓びを揚げてゐたのだつた。
曹操は、臣下の狂喜してゐる様を見て、
「アヽ我誤てり。——かりそめにも、将たる者は、死を軽んずべきではない。もしゆうべから暁の間に、自害してゐたら、この部下たちをどんなに悲しませたらう」
と、痛感した。
「訓(をし)へられた。訓へられた」
と彼は心で繰返した。
敗戦に訓へられた事は大きい。得がたい体験であつたと思ふ。
「戦にも、負けてみるがいゝ。敗れて初めて覚り得るものがある」
負け惜(をし)みでなくさう思つた。
一万の兵、餘すところ、わづか五百騎、しかし、再起の希望は、決して失はれてゐない。
「ひとまづ、河内郡(カダイグン)に落ちのびて、後図(コウト)を計るとしよう」
曹操は云つた。
夏侯惇、曹仁たちも、
「それがよいでせう」
兵馬に令してそこを発(た)つた。
一竿(イツカン)の列伍は淋しく河内へ落ちて行つた。山河は蕭々と敗将の胸へ悲歌を送つた。生れながら気随(きずゐ)気儘(きまゝ)に育つて、長じても猶(なほ)、人を人とも思はなかつた曹操も、こんどといふ今度はいたく骨身に徹(こた)へたものがあるらしかつた。
途(みち)すがら、耿々の星を仰ぐたびに、彼はひとり呟いた。
「——君は乱世の奸雄だと、曽(かつ)て豫言者がおれに云つた。おれは満足して起つた。よろしい、天よ、百難をわれに与へよ、奸雄たらずとも、必ず天下の一雄になつてみせる」
***************************************
次回 → 珠(たま)(一)(2024年3月11日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。