第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 生死一川(セイシイツセン)(二)
***************************************
曹洪は、兄を抱いて、馬から降りたが、決して抱いてゐる手を弛(ゆる)めなかつた。
「何です、自害するなんて、平常の貴郎(あなた)の御気性にも似あはぬことを!」
と、わざと叱咤して、
「前にはこの大河、うしろからは敵の追撃、今やわたし達の運命は、こゝに終つたかの如く見えますが、物(もの)窮(きは)まれば通ず——といふ言葉もある。運を天にまかせて、この大河を越えませう」
河岸に立つと、白浪のしぶきは岸砂を洗ひ、流れは急で、飛鴻(ヒコウ)も近づかぬ水の相(すがた)であつた。
身に着けてゐる重い物は、すべて捨てゝ、曹洪は一剣を口に咥(くわ)へ、傷負(てをひ)の兄を慥乎(しつか)と肩にかけると、ざんぶとばかり濁流の中へ泳ぎ出した。
江に接してゐた低い雨雲が開くと、天の一角が鮮明に彩(いろど)られて来た。いつか夜は白みかけてゐたのである。満々たる江水は紅(くれなゐ)に燃え立つて、怪魚のやうに泳いでゆく二人の影を揉みに揉んでゐた。
流れは烈しいし、傷を負つてゐるので、曹洪の四肢は自由に水を切れなかつた。見る/\うちに、下流へ下流へと押流されてゆく。
然(しか)し、遂(つひ)に彼岸は、眼のまへに近づいた。
「もうひと息——」
と、曹洪は、必死に泳いだ。
対岸の緑草は、ついそこに見えながら、それへ寄りつく迄(まで)が容易でなかつた。激浪がぶつかつては、渦となつて、波流を渦巻いてゐるからだつた。
すると。
その河畔からやゝ離れた丘に徐英の一部隊が小陣地を布いてゐた。河筋を監視する為(ため)に、二名の歩哨が立つて、暁光の美観に見惚(みと)れてゐたが——
「やつ?何だろ」
一人が指さした。
「怪魚か」
「いや、人間だつ」
あわてゝ部将のところへ報(しら)せに馳けた。
部将もそれへ来て、
「曹操軍の落武者だ。射てしまへ」と、弩弓手(ドキウシユ)へ号令した。
まさかそれが曹操兄弟とは気づかなかつたので、緩慢にも弓組の列を布いて、射術を競はせたものだつた。
びゆつん——
ぶうつん——
弦は鳴り矢はうなつて、彼方の水際へ、雨かとばかり飛沫(しぶき)を立つた。
曹洪は、すでに岸へ這ひついてゐたが、前後に飛んで来る敵の矢に、暫(しばら)く、死んだまねをしてゐた。
その間に、
「どう逃げようか」
を、考へてゐた。
ところが却(かへ)つて、遙(はる)か河上から、一手の軍勢が、河に沿つて下つて来るのが見えた。朝雲の晴れ渡つた下に翻(ひるがへ)る旗幟を望めば、それは紛(まぎ)れもなく滎陽城の太守徐英の精鋭だつた。
「あれに見つかつては」
と、曹洪は、気も顚動(てんどう)せんばかりに慌てた。矢ばしりの中も今は恐れてゐられなかつた。剣を舞はして、矢を縦横に薙(な)ぎ払ひながら馳け出した。
曹操も、矢を払つた。二人か一人か、それは遠目には分らないほど、相擁しながら馳けたのである。
丘の上の隊も、河に沿つて来た一群の軍勢も、曹操兄弟が矢風の中を凌(しの)いで馳け出した影を見ると、
「さては、名のある敵にちがひないぞ。逃がすな」
と、忽ち砂塵をあげて、東西から追ひちゞめ、そのうち一小隊は、早くも先へ馳け抜けて、二人の前をも立ち塞(ふさ)いでしまつた。
***************************************
次回 → 生死一川(セイシイツセン)(四)(2024年3月9日(土)18時配信)