第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 生死一川(セイシイツセン)(一)
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「——しまつたツ」
曹操は叫びながら、駒の鬣(たてがみ)へ俯(う)つ伏した。
又も、徐英の放つた二の矢が、びゆんと耳のわきを掠(かす)めてゆく。
肩に突つ立つた矢を抜いてゐる遑(いとま)もなかつたのである。
その矢傷から流れ出る血しほに駒の鬣も鞍も濡れ侵(ひた)つた。駒は血を浴びて猶(なほ)狂奔をつゞけてゐた。
すると、一叢の木蔭に、ざはざはと人影がうごいた。
「あつ、曹操だつ」
と、いふ声がした。
それは徐英の兵だつた。徒歩(かち)立ちで隠れてゐたのである。一人がいきなり槍をもつて、曹操の馬の太腹を突いた。
馬は高く嘶(いなゝ)いて、竿立ちに狂ひ曹操は大地へ刎(は)ね落された。
徒歩兵四、五人が、わつと寄つて
「生擒れつ」
とばかり折り重なつた。
仰向けに仆れたまゝ、剣を抜き払つて、曹操は二人を斬つただけで、力尽きてしまつた。
落馬した刹那に、馬の蹄で肋骨(あばら)をしたゝかに踏まれてゐたからだつた。
時に。
曹操の弟曹洪は、乱軍の中から落ちて一人この辺りを彷徨(さまよ)つてゐたが、異なる馬の啼き声がしたので
「や。……今のは兄の愛馬の声ではないか」
と、馳けつけて来て、月明りにすかしてみると、今しも兄の曹操はわづかな雑兵輩(ザフヒヤウハイ)の自由になつて、高手小手に縛められようとしてゐる様子である。
「くそツ」
跳ぶ如く馳け寄つて、一人を後(うしろ)から斬り伏せ、一人を薙(な)ぎつけた。驚いて、逃げるは追はず、すぐ兄の身を抱き上げて
「兄上つ、兄上。慥(しつか)りして下さい。曹洪です」
「あ。おまへか」
「お気がつきましたか。——さつさつ、私の肩につかまつてお起ちなさい。今逃げた兵が、徐英の軍を呼んでくるに違ひありません」
「だ、だめだ……曹洪」
「何ですと?」
「残念ながら、矢傷を負ひ、馬に踏まれた胸も苦しい。この身は打捨てゝ行け。おまへだけ、早く落ちて行つてくれ」
「心弱いことを仰つしやいますな。矢傷ぐらゐ、大した事はありません。今、天下の大乱、この曹洪などは無くとも、曹操はなくてはなりません。一日でも、生きてゆくのは、貴郎(あなた)の天から享(う)けてゐる使命です」
曹洪は、かう励まして、兄の着てゐる鎧甲を解いて身軽にさせ、小脇に抱いて、敵の捨てたらしい駒の背へしがみついた。
果して。
わあつ……と、徐英の手勢が、後(うしろ)から追つて来た。
曹洪は、心も空に、片手に兄を抱へ、片手に手綱を把(と)り、眼をふさいで
「この身はともかく、兄曹操の一命こそ、大事の今。諸仏天(シヨブツテン)加護ありたまへ」
と、禱(いの)りながら無我夢中に逃げつゞけた。
逆落しに、山上から曠野まで馳け下りて来た心地がした。
「やれ、麓へ出たか」
と、思つてふと見ると、満々たる大河が行く手に横たはつてゐるではないか。それと見た曹操は、苦しげに、弟を顧みて、
「あゝ、わが命数も極まつたとみえる。曹洪、降ろしてくれ、潔くおれはこゝで自害する。——敵のやつて来ないうちに」
と、死を急いだ。
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次回 → 生死一川(セイシイツセン)(三)(2024年3月8日(金)18時配信)