第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 洛陽落日賦(七)
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曹操は、見つけて
「おのれ、彼(あ)れなるは、たしかに呂布」
と、遮る雑兵を蹴ちらして、呂布の立つてゐる高地へ近づかうとしたが、董卓直参の李傕が、横合の沢から一群を率ゐてどつと馳け下り
「曹操を生擒れ」
「曹操を逃がすな」
「曹操こそ、乱賊の主魁(シユクワイ)ぞ」
と、口々に呼ばはつて、伏兵の大軍すべて、彼ひとりを目標に渦まいた。
八方の沢や崖から飛んで来る矢も、彼の前後をつゝむ剣も戟も、みな彼一身に集まつた。
しかも曹操の身は今や、まつたく危地に墜ちてゐた。うま/\と敵の策中にその生殺を捉はれてしまつた。
——君は戦国の奸雄だ。
と、豫言されて、むしろ本望なりと曽(かつ)て自ら祝した驕慢児《きようまんじ》も、今は、絶体絶命とはなつた。
奇才縦横、その熱舌と気魄をもつて、白面の一空拳よく十八ケ国の諸侯をうごかし、遂(つひ)に、董卓をして洛陽を捨てるの止むなきに迄(まで)——その鬼謀は実現を見たが——彼の夢はやはり白面青年の夢でしかなく、儚(はかな)い現実の末路を告げてしまふのであらうか。
さう見えた。
彼も亦(また)、さう覚悟した。
ところへ、一方の血路を斬りひらいて、彼の臣、夏侯淵は、主を求めて、馳けつけて来た。
そしてこゝの態を見るや否
「主君を討たすな」
と、一角から入りみだれて猛兵を突つこみ、李傕を追つて、漸(やうや)く、曹操を救(たす)け出した。
「ぜひもありません。かくなる上は、お命こそ大事です。一(ひと)先(ま)づ麓の滎陽まで引退(ひきさ)がつた上となさい」
夏侯淵は、わづか二千の残兵を擁して踏みとゞまり曹操に五百騎ほど守護の兵をつけて
「早く、早く」
と促した。
顧みれば、一万の兵は、打ちひしがれて、三千を出なかつた。
曹操は、麓へ走つた。
然(しか)し、道々幾たびも、伏兵又伏兵の奇襲に脅やかされた。従ふ兵も散々に打ち減らされ、彼のまはりにはもう十騎餘りの兵しか見えなかつた。
それも、馬は傷(きずつ)き、身は深傷(ふかで)を負ひ、共に歩けぬ者さへ加へてゞある。
みじめなる落武者の境遇を、曹操は死線のうちに味はつてゐた。
人心地もなく、迷ひあるいて、たゞ麓へ麓へと、うつゝに道を捜してゐたが、気がつくと、いつか陽も暮れて、寒鴉の群れ啼く疎林のあたりに、宵月の気はいが仄(ほの)かにさしかけてゐる。
「ああ、故郷の山に似てゐる」
ふと、曹操の胸には父母のすがたが泛(うか)んできた。大きな月のさしのぼるのを見ながら
「親不孝ばかりした」
驕慢児の眼にも、真実の涙が光つた。脆い一個の人間に返つた彼は、急に五体のつかれを思ひ、喉の渇(カツ)に責められた。
「清水が湧いてゐる……」
馬を降りて、彼は清水へ顔を寄せた。そして、〔がぶ〕と一口飲み干したと思ふと、又すぐ近くの森林から執念ぶかい敵の鬨(とき)の声が聞えた。
「……やつ?」
恟(ギヨ)ツとして、駒の背へ飛び移るまに、もう残るわづかな郎党も、矢に斃(たふ)れたり、逃げる力もなく、草むらに、ことぎれて了(しま)つてゐる。
追ひかけて来たのは、滎陽城太守の徐英の新手(あらて)であつた。徐英は、逃げる一騎を曹操と見て
「しめたツ」
曳(ひ)きしぼつた鉄弓の一矢を、ぶん!——と放つた。
矢は、曹操の肩に立つた。
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次回 → 生死一川(セイシイツセン)(二)(2024年3月7日(木)18時配信)