第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 洛陽落日賦(三)
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【前回迄の梗概】
後漢の天下は霊帝の薨後麻の如く乱れ、奸臣董卓は陳留王を擁立して皇帝となし、自らは相国として勢威を張る。風雲を望む人物曹操は河南に走つて天下に檄し、兵を挙げる。諸国の太守来り会し、義軍を組織して勃海の太守袁紹を総大将とする。劉備玄徳も関羽、張飛と共に一小部将として参加する。
南軍の先鋒長沙の太守孫堅と北軍の先鋒華雄との汜水関対陣となつた。袁紹の本陣内に孫堅に恨を懐くものあり、兵糧を送らない。華雄はこれにジョウして孫堅に大敗を喫せしめ本陣に迫る。関羽勇躍して華雄の首を取り、北軍にその人ありと知られてゐる呂布がいよ/\出陣する。呂布は虎牢関に守りを堅くし、南軍の出撃を待つて自ら名簿赤兎馬に打乗り南軍を散々に乱す。この荒武者をとりかこんだのは劉備、関羽、張飛の三人、呂布も危しと見えたが赤兎馬の快足によつて僅に脱出する。それにしても北軍の意気は阻喪、董卓は洛陽から長安へ遷都を計るに至る。——
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「遷都だ。遷都のお触(ふれ)が出たぞ」
「こゝを捨てゝ長安へ」
「後は何(ど)うなるのだらう」
洛陽の市民は、寝耳に水の驚きに打たれて、為すことも知らなかつた。
それにきのふの白昼、董相国の輦(くるま)に向つて直諫した二忠臣が、相国の怒りにふれて、
——斬れつ。
といふたゞ一喝の下に、武士たちの刀槍の下に寸断された非業な死(しに)ざまをも、市民は、まざ/\と目撃してゐるので、
「ものを云ふな」
「何もいふな」
「殺されるぞ」
と、ひたすら懼れて、不平の叫びすら揚げ得ないのであつた。
危(あやふ)い哉(かな)、董卓は、天をも惧(おそ)れない、又、地に満つる民心の怨みも意としない。彼は、一夜を熟睡して、醒めるとすぐ、
「李儒、李儒」
「はつ、これにゐます」
「遷都の発令はすんだか」
「万端終りました」
「朝廷においても、公卿百官もみな心得てゐるだらうな」
「引移る準備に狂奔してをります。それから都門へ高札を立て、なほそれ/゛\役人から触れさせましたから、洛内の人民共も、怖らく車駕について大部分は長安へ流れて来ませう」
「いや、それは貧乏人だけだ。富貴な金持は、忽ち家財を隠匿して、閑地へ散つてしまふ。丞相府にも朝廷にも、金銀はすでに乏しからう」
「さればです。遷都令と同時に軍費徴発令をお発しありたいと存じます」
「いゝやうにやれ、いち/\法文を発するには及ばん」
「では、御一任ください」
李儒は五千人を選んで、市中に放ち、遷都と軍事の御用金を命ずると称して、洛中の目ぼしい富豪を片つぱしから襲はせた。そして金銀財宝を山のごとく集め、それを駄馬や車輛に積んでは、傍(そば)から傍から長安へ向けて輸送した。
洛陽は、無政府状態となつた。
官紀も、警察制度もすべての秩序も一日のまに喪失して、市街は混乱に陥つた。
富家の財宝を没収するやり方も実に酷かつた。
狂風に躍る暴兵は、こゝぞと思ふ富豪の邸(やしき)へ目をつけると、四方を取囲んでおいて、突然、邸内へ乱入し、家財金銀を担ぎ出して手(て)抗(むか)ふ者は立ち所に斬り殺した。年若い女子の悲鳴が、その間に、陰々と、人目のない所から聞えて来たり、又公然と、攫(さら)はれて行つたり、眼もあてられない有様だつた。
又、発令の翌日。
武林軍(ブリングン)の将校たちは、流民が他国へ移るのを防ぐために、強制的に兵力でこれを一ケ所にまとめ、百姓の家族たちを五千、七千と一団にして、長安の方へ送つた。
乳のみ児を抱へた女房や、老人病人を負つた者や、無けなしの襤褸(ぼろ)だの貧しい家財を担つて子の手を曳いてゆく者だの——明日知れぬ運命へ駆り立てられながら、山羊の群の如く真つ黒に追はれて歩く流民の姿は、実に憐れなものだつた。
鬼畜の如き暴兵は、手の刀を、絶えず鞭の如く振つて、
「歩け、歩け、歩かぬやつは斬るぞ」
「病人など捨てゝ歩け」
と、脅しつけたり、白昼、人妻に戯れたり、その良人を刺し殺したり、恣(ほしいまゝ)な暴虐を加へて行つた。
為(ため)に、流民の号泣する声が、野山に谺(こだま)して、天も曇るかと思はれた。
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次回 → 洛陽落日賦(五)(2024年3月2日(土)18時配信)