第一回 → 黄巾賊(一)
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廟議とはいへ、彼が口を開けば、それは絶対なものだつた。
けれどこの時は、さすがに、百官の顔色も動(ど)揺(よ)めいた。
第一、帝もびつくりされた。
「……遷都?」
事の重大に、遽(にはか)に、賛同の声も湧かなかつた。代りに又、反対する者もなかつた。
寂たる一瞬がつゞいた。
すると、司徒の楊彪(ヤウベウ)が、初めて口を切つた。
「丞相。今はその時ではありますまい。関中の人民は、新帝定まり給うてから、まだ幾日も、安き心もなかつた所です。そこへ又、歴史ある洛陽を捨てゝ、長安へ御遷都などゝ発布されたら、それこそ、百姓たちは、鼎(かなへ)のごとく沸いて、天下の乱を助長するばかりでせう」
太尉黄琬(クワウヱン)も、彼について、発言した。
「さうです。今、楊彪の申されたとほり、遷都の儀は、然るべからずと存じます。その理由は、明白です。——こゝにある百官の諸卿も、胸にその不可は知つても、ただ丞相の意に逆らふことを恐れて、黙してをるのみでせう」
続いて、荀爽(ジユンサウ)も、反対した。
「もし今、挙げて、王府をこの地から掃へば、商賈(シヤウコ)は売るに道を失ひ、工匠は職より捨てられ、百姓は流離して、天を怨みませう。——丞相どうか草民をあはれんで下さい」
つゞけざまに異論が沸きさうに見えたので、董卓は、形相(ギヤウサウ)を作(な)して呶鳴つた。
「わづかな百姓が何だつ。天下の計をなすのに、いち/\百姓の事など按じてゐられるか」
荀爽は、又云つた。
「百姓は邦の本(もと)ですぞ。百姓なくして、国家がありませうか」
「おのれ、まだ云ふかつ。彼奴(きやつ)らの官職を剝ぎ、位階を奪(と)り上げろ」
董卓は、云ひ捨てゝ、廟を下り、即座に、万車(バンシヤ)千駄(センダ)の用意を命じて、自分は一(ひと)先(ま)づ宮門から自邸へと輦(くるま)を急がせた。
すると、その途上を、街路樹の木蔭で待ちうけてゐたらしい若い武士(もののふ)が二人、
「丞相、暫(しばら)くつ」
「暫くお待ち下さい」
と追ひかけて来て、輦の前へひざまづいた。見れば、城門の守尉(シユヰ)伍瓊(ゴケイ)と、尚書(シヤウシヨ)の周毖(シウヒ)であつた。
「何だ、汝等、わが途上を遮つて」
「無礼のお咎めは、覚悟のまへで申上げに来ました」
「覚悟のまへだと。何をわれに告げようといふのか」
「今日、宮中に於て、遷都の御内定があつたかに承りますが」
「内定ではない。決議だ」
「洩れ伺つて、われわれ末輩まで、驚倒いたしました。伝統ある都府は、一朝一夕にはできません。いはんや漢室十二代の光輝あるこの土(ド)を捨てゝ」
「蠅めら、何をいふ。書生の分際で、朝議の決議に、異議を申したてるなど、以(もつ)てのほかな奴だ。しかも路傍で——。」
「いかほどお怒りをうけませうとも、天下の為、坐視はできません」
「坐視できぬ。さては敵の廻し者か。生かしておいては、後日の害だ。こやつ等の首を刎(は)ねろつ」
云ひ放つて、輦を進めると、二人はなほ、忠諫を叫びながら、輦の輪に取りすがつた。
そこを、董卓の家臣たちが、背から突き、頭から斬り下げたので、車蓋まで鮮血は飛び、車の歯にも肉漿(ニクシヤウ)がかゝつて、赤い線が絡まつてぐわら/\旋(まは)つて行くやうに見えた。
それを見た洛陽の市民はみな泣いた。又、遷都のうはさは半日の間にひろまつて、聞く者みな茫然としてしまつた。
夜に入ると、心なしか、地は常よりも暗く、天は常よりも怪しげな妖星の光が跳ね躍つてゐた。
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次回 → 洛陽落日賦(四)(2024年3月1日(金)18時配信)