第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 虎牢関(五)
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味方の大捷(タイシヤウ)に、袁紹、曹操を初め、十八ケ国の諸侯は、本陣に雲集して、よろこびを動(ど)揺(よ)めかせてゐた。
そのうちに、討取つた敵の首級何万を検して大坑へ葬つた。
「この何万の首のうちに、一つの呂布の首がないのだけは、遺憾だな」
曹操が云ふと、
「いや、張飛や関羽などゝいふ雑兵に打負けて逃げるやうでは、呂布の首の値打も、もう以前のやうにはない」
と、袁紹は大きく笑つた。
勝てば皆、軍(いくさ)は自分ひとりでしたやうに思ひ、負ければ皆、負けた原因を、他人に向けて考へる。
凱歌と共に、杯を挙げて、一同はひとまづ各々の陣地へもどつた。すると、誰か、
「待ち給へ袁術」
と、一人の将軍を呼び止めた者がある。
袁術は、袁紹の弟で、兵糧方を一手に指揮してゐる者だ。誰かと思つてふり顧(かへ)ると、それは、前(さき)に汜水関の第一戦で惨敗を喫してから後、常に、陣中でも〔うけ〕が悪いので肩身せまさうにしてゐた長沙の太守孫堅だつた。
「やあ。孫堅か。足下(ソクカ)も陣地へ引揚げるところか」
「いや、貴公の陣地へ、わざ/\貴公を訪ねて来たのだ」
「——とは又、どんな御用で」
「ほかでもないが、先頃、それがしが先鋒を承つて、汜水関の攻撃に向つていた際は、何(なに)故(ゆゑ)、貴公は故意に兵糧の輸送を止めたか。返答あらば承らう」
剣の柄に手をかけて詰問した。
袁術は、蒼くなつて、
「いや、あの事か、あの事に就(つい)てならば、一度足下に親しく事情を語らうと思つてゐたが、陣中、つい遑(いとま)もなかつたので」
「そんな事を糺(たゞ)すのではない。なぜ兵糧を送らなかつたか、それだけを聞けば此方にも覚悟があるのだ。抑々(そも/\)、此孫堅は、董卓とは元元何の怨みがあるわけでもない。唯(たゞ)、こんどの檄に応じて戦に加はつたのは、上は国家の為(ため)、下は百姓の苦しみを救はんが為だ。然(しか)るに雑人(ザフニン)ばらの讒言(ザンゲン)を信じて、故意に、この孫堅に敗軍の憂目を見せたことは、味方同士とはいへ、ゆるして措(お)き難い。返答に依つては、今日こゝに於て、おん身の首を申しうける覚悟で来た。……さつ、申し開きがあるなら云つてみろ」
孫堅の人物は疾(と)く知つてゐる。気の短いそして猛々しい南方人の生れだ。青白い面色して、眦(まなじり)をつりあげながら迫るのだつた。袁術は、脚のくる節から顫(ふる)へが這ひのぼつて来るのを覚えた。
「ま、ま。さう怒らないで。——まつたく、後では自分も申し訳なく思つてゐた。それにつけても憎ツくい奴は、足下の讒訴(ザンソ)を云ひふらした男ぢや。その者の首を刎(は)ねて、陣中に高札し、足下の冤(ヱン)を雪(そゝ)ぐから、胸をなでゝくれ給へ」
平謝(あや)まりに謝まつて、袁術は自分の命惜しさに、前に自分へ向つて、兵糧止めを進言した隊中の部将を呼びつけ、理由も告げず縛らせて、
「この男です。この男が足下のことを餘り讒言するので、つい口に乗つたわけで。——どうかこれを以(もつ)て、鬱憤をなぐさめてくれ給へ」
左右の家臣に命じて、即座に部将の首を刎ねてしまつた。
かういふ小人をあひてにとつて怒つてみても始まらないと考へたのか——孫堅は苦笑ひして、わが陣地へ帰つてしまつた。そして久しぶりに、帳(とばり)を垂れて長々と眠りかけると、夜営の哨兵が、何か呶鳴る声がした。
「……何か?」
と、身を起してゐると、常に彼の傍らに警固している程普、黄蓋の二大将が、
「太守。起きておいでですか」
と、帳の間から小声で云つた。
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次回 → 洛陽落日賦(二)(2024年2月28日(水)18時配信)